2015年3月アーカイブ

 「NHK京都放送局」が京都市の中心部に2月の下旬に新築移転をしました。楽しいアトラクションいっぱいの新会館と、PRをしているので期待をして出掛けてみました。

 

  新会館オープンのチラシです。

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  京都のメーンストリートの烏丸通りに面して、京風の格子と庇を思わせる意匠を凝らした瀟洒な建物です。

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  一階の「正面玄関」です。出隅のある深い庇は垂木が広がり、抵抗なく入館できるような、柔らかな印象を訪れる人に与えてくれます。

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   「正面入口」を入ると、まず広いエントランスホールがあります。二階まで吹抜けになっていて、正面には8Kスーパーハイビジョンが入館者をまず驚かせます。僕が入館した時は、丁度、オリンピックで男子スケートの金メダルを獲得した、羽生選手の演技を写しだしていました。3300万画素の超高精細映像を、220インチ大型マルチモニターで上映されています。3次元立体音響で臨場感も素晴らしいものです。(このハイビジョンの画面は撮影禁止と注意され、画面はぼかしてあります)右手には来館者の受付カウンターとなっています。

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  左手壁面は、大型のガラス一面で解放感があり、姉小路通りから明るい日差しがエントランスホールに広がります。またキャラクターゲームができる、子供が楽しめるコーナーも設置されています。

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  奥は「化粧室」になっています。

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   世界一大きな「巨大どーもくん」が出迎えてくれます。

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   2階に上がると、東側と南側に「エントランスホール」の吹抜けに張出したテラスとも言うべき広いスペースがあり、1階の「エントランスホールが」見渡せるようになっています。また2階の外部テラスにも出られて、烏丸通りを眺める事ができます。

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   廊下には「ギャラリー」があり、京都関連の映像が展示されています。

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   2階にある映像やニュースを視聴できるブースです。

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  2階にある姉小路通りに面した外部テラスです。

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   こちらは烏丸通りに面した外部テラスで、見えているのは「新風館」です。この新風館も新たな施設に衣替えするようです。

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   1階南側「姉小路通り」に面して広い通路が確保されています。

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  さて、新会館を訪れて見学できるのは1・2階のみで、それ以外は立入りできませんでした。本格的なデジタル時代を迎えて、創造と情報発信の拠点となる、新しいスタジオを見学できるかと、また、最新の放送設備など、日常の放送局のありのままの姿を垣間見ることができるのかと期待していましたが、興味ある事柄は残念ながら見ることは叶わず、期待外れの不完全燃焼の新会館見学でした。

 

 

 

小京都の「津和野」2

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本町通りや殿町付近の散策から少し足を延ばして、津和野案内書のポイントを順次訪ねることにしました。

    城址に行く途中の「徳川夢声句碑」です。徳川夢声は、大正から昭和にかけて、独特の話声でラジオや演劇で一世を風靡した話芸の名人です。夢声は幼少時代、母の生家津和野町で過しました。(山茶花の雨となりたる別れかな)

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    「永明寺」(ようめいじ)です。覚皇山永明寺といい、禅宗の古刹で、歴代藩主の菩提寺です。

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         「山門」です。

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    「中雀門」と「鐘楼堂」です。

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    前庭を通して見た茅葺の「本堂」です。

 

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   開梆(かいばん)です。来訪を知らせたり、時を知らせたり、木魚の原型です。

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   本堂から正面にある「中雀門」です。

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      「本堂内部」です。

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       「禅庭」と呼ばれています。

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   「津和野城馬場先櫓」です。この櫓は、旧津和野藩邸表門の左方の角地に配置されていた隅櫓で、南西に馬場があったのでこの名前がつけられています。一度焼失し、安政3年(1856年)に再建されました。旧津和野藩邸の建物で、もとの位置を変えずに残っている貴重な建物です。

 

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   津和野城址(国指定文化財)です。「三本松城、蕗城」ともいいます。城址に行くには、リフトで山頂近くまで行き、山道を15分ほど歩くと着きます。

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    このようなカエデなどの樹林帯を15分ほど歩いていきます。

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    津和野城は弘安5年(1282年)蒙古の襲来に備えて、吉見頼行氏が最初に築いたといわれています。その後、慶長6年(1601年)坂崎出羽守が入城して全域にわたって石垣を築き、その後、亀井氏代々の居城として引継がれてきました。

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       「天守台跡」です。

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      巨大な石垣が残るのみとなっています。

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    「三十間台跡」です。城址は県立の自然公園になっています。

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     眼下に津和野川の流れと、津和野市が俯瞰できます。

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    津和野城址へのリフト乗場から少し上ると、「太鼓谷稲成神社」があります。日本五大稲荷のひとつで、城山だった太鼓谷に、京都の伏見稲荷を勧請した神社です。稲「成」の字には大願成就の願いがこめられています。

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     「神門」です。

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    「社務所」と「参集殿」です。

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        「御本殿」です。

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   もとに戻り、リフト乗場から南へ下っていきます。民家が点在するなかに,西周(にしあまね)旧宅があります。西周は文政12年(1829年)津和野藩医、西寿雄の長男として生まれ、4歳の時この家に移りました、20歳で養老館教師となり。その後オランダへ留学、西洋哲学の思想にも影響を受けました。帰国後、開成所の教授となり、憲法草案などを著し、また「哲学」「感覚」などの言葉を生み出した、明治の啓蒙思想家で、文明開化の推進に多大な功績を残しました。

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   「西周旧宅」から津和野川を渡ったほど近いところに森鴎外の旧宅があります。記念館の一隅にある「鴎外の胸像」です。

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  文豪と謳われた「森鴎外の旧宅」(国指定文化財)です。津和野に生まれ、林太郎と呼ばれ、幼少期を過した場所です。

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    「正面玄関」です。

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    「室内の一部」です。

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   旧宅の南側に隣接して建てられた「森鴎外記念館」です。記念館には、正面の不透明なガラスの誘導路を進むとロビーがあります。この誘導路は、異質の世界に迷い込むような感覚をもたらしてくれます。展示室は軍医としての鴎外、文学者としての鴎外と、写真やパネル、遺品など貴重な資料が展示されています。

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   「ロビー」です。天井も高く、広々とした開放的なロビーです。

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   「ロビー」からは中庭を通して、鴎外の旧宅をのぞむことができます。

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   「津和野川」に面した小憩ホールです。

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   「鴎外記念館」から津和野駅近くまで戻り、乙女峠を目指しました。「マリア聖堂」のある、乙女峠への山道です。下にある駐輪場に自転車を置いてこの山道を歩いて上ります。

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   「乙女峠 マリア聖堂」です。明治元年に長崎から送られてきた153人の隠れキリシタンは、津和野藩の改宗の進めに応じず、ついに拷問によって36人が殉教の道を選びました。その際、日本で唯一、聖母マリアが降臨された地といわれています。殉教者を追悼するため建立されました。

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     「乙女峠記念聖堂マリア堂」です。もと光淋寺の跡地に建設されました。光淋寺は、慶応3年(1867年)長崎浦上の異宗徒御預所となっていたお寺です。雨の中しばし佇んでいると、敬虔な気持ちが自ずから沸いてくるのが不思議です。

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  「マリア堂」前から「殉教記念史跡」です。

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  「三尺牢跡」です。聖母マリアが降臨された場と称されています。

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   「殉教百年記念碑」です。昭和43年(1968年)に建立しました。

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   乙女峠への上り口にある浄土宗の「光明寺」です。山門の左右にお地蔵様が祀られています。

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       「本堂」です。

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     JR津和野駅越しに見える、「安野光雅美術館」です。

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   「安野光雅美術館」は高岡通りに面して建っています。光雅は大正15年、津和野町に生まれましたが、その後上京し、淡い色調の水彩画など、独特のやさしい雰囲気の作品で多くの人を魅了し、活躍が認められて文化功労者にも選ばれています。wano81.JPG

 

   「正面玄関」です。内部は展示棟と学習棟に分かれていて、プラネタリウムも併設しています。wano82.JPG

 

   「安野光雅美術館」を最後に、3日間にわたるこの旅も、JR津和野駅17:50分発、特急スーパー「おき」に乗車、新山口駅行に向い、新幹線「さくら」に乗継ぎ、終わりを告げました。

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小京都の「津和野」1

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 山口県を離れて島根県の小京都といわれる津和野市へ向かいます。JRの山陰本線と山口線を乗継いで行くと時間のロスが大きいので、急遽、防長バスを利用して津和野市へ向かいました。

 東萩駅前から乗車します。運賃は2,190円とちょっと高めですが、乗客が少ないので仕方ないでしょう、津和野までわずか5人でした。津和野のお天気は、今日は昼頃から雨の予報覚悟の上の出発です。

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  このような山間部を走り続けます。

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  「JR津和野駅前」です。辺りの風景に溶け込んだ立派な駅舎です。今日も駅前のレンタサイクルを利用して回ります。1日、800円これほど廉価で能率の良い交通手段はありません。

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   駅前から「本町通り」を進みます。この辺りは古くからのお店が多く軒を連ねています。お酒の醸造元華泉酒造で、江戸時代の享保年間から続く老舗です。

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  「本町通り」にある、「鯉の米屋」吉永米穀店です。中庭に水路を引き、池を造り、錦鯉がたくさん泳いでいることで知られています。

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  津和野の地酒は有名なのでしょう、何軒か見かけました。

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  「古橋酒造」です。初陣という銘柄は幕末まで遡るそうです。

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  「分銅屋七右衛門商店」(登録有形文化財)です。

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   「本町通り」の「今市通り」辺りです。和菓子屋さんです。

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   「沙羅の木」です。津和野銘菓「源氏巻」を製造して、喫茶店や土産物店を併設しています。散策に一休みの人で賑わっています。

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  「殿町通り」です。城下の中心部となっていました。「養老館跡」や町役場・多胡家老門など昔の門構えとなまこ塀の家が並んでいます。

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   「津和野カトリック教会」も建っています。ゴシック様式によって建てられ、内部は畳敷きの教会です。時を経て、異質なく付近の景観に溶け込んでいるのが不思議です。

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  「殿町通り」に面した、「大岡家家老門」となまこ壁です。

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   「大岡家家老門」を入ると、「津和野町庁舎」となっています。

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  塀越しに梅の香りも漂ってきます。

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   その掘割には錦鯉が泳いでいます。工事中で水が濁っているのが少し残念です。

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  「養老館跡」です。現在は民俗資料館になっています。養老館は藩校で西周や森鴎外も幼い時に通っていました。

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  この養老館の跡地に「森鴎外の遺言碑」が建っています。

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   津和野川畔に建つ「鷺舞」の像です。鷺舞は古式豊かな神事舞として、京都より天文11年(1542年)津和野城主十一代、大蔵正頼が五穀豊穰、災厄防除のため移したものです。現在、弥栄神社の例祭に舞われています。

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   「殿町通り」を南にあたると「津和野川」に出ます。遊歩道が完備されて町民の憩いの場となっているようです。小雨が降ってきました。

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   正面の橋は津和野川に架かる大橋です。

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  川向こうに「郷土館」が見えます。

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   「大橋」を渡った袂に、郷土館があります。

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   川沿いに郷土館のなまこ壁が続いています。

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  「本町通り」から「新町」への横道を入ると碑が多く建っています。高岡通りに面した「津和野藩家老多胡家表門」です。多胡家は亀井氏十一代に渡り家老職を勤め、藩に貢献した人です。

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   「小藤文治郎誕生の地」です。安政3年津和野に生まれ、明治3年上京し、ドイツにも留学。地質学の権威として世界的に知られた東京帝国大学名誉教授です。

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  「中村吉蔵生誕の地」です。中村吉蔵は明治10年(1877年)津和野町生まれ、早稲田大学に入学、渡米し演劇を学び、松井須磨子の芸術座に参加、舞台監督などを務め、日本の演劇家の草分けとして不滅の功績を残した人です。

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   「中田瑞穂生誕の地」です。明治26年津和野町生まれ、東京帝国大学医学部を卒業し、欧米各国に留学、最先端の医学を吸収して、脳外科医学者として文化功労者に選ばれた人です。

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  萩城下町から東へ、自転車で20分、明治維新胎動の地といわれる、旧松本村へやってきました。まず松陰神社へお参りします。

 

  「松陰神社」の大鳥居です。

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  松陰の「別れの書簡の碑」です。安政の大獄により捕らえられた松陰は、安政6年(1859年)10月20日、郷里の両親に宛てた別れの書簡「永訣の書」の中で詠まれたものです。享年30歳(親思う こころにまさる 親ごころ きょうの音づれ 何ときくらん)松陰の自筆を模写したものです。

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  「松下村塾」(国指定史跡)です。吉田松陰が身分や階級にとらわれずに教育を行い、わずかの期間に久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文など維新の原動力となった逸材を育てた場所です。

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   「講義室」です。

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  「松下村塾」に隣接する、松陰の実家の「杉百合之助宅」です。はじめ親族の瀬能家から借りたものでかなり広い屋敷です。

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  「玄関」です。

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  「吉田松陰幽囚丿旧宅」(国指定史跡)です。野山獄から実家に帰され、謹慎を命じられた松陰は、幽囚室で孟子などを講じ、次第に若者が参加するようになり、一年半ばかり続けられ、松下村塾につながっていくようになります。

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  「幽囚室」です。謹慎中は三畳半一室のこの部屋で過したといわれています。

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  「松陰神社」二の鳥居です。吉田松陰を祭神とする神社で、明治23年(1890)に、松下村塾の西側に祠を建てたのが始まりです。その後、萩城内にあった宮崎八幡宮(毛利家の鎮守)の神殿が移築されました。現在の拝殿は昭和30年に完成しました。

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  「御本殿」です。

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  「松陰神社」に隣接する「松門神社」です。昭和30年、松陰神社の新社殿がが竣功し、旧社殿を改修して現在地に移し、塾生、門下生を合祀してお祀りしています。

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  茶室「花月楼」(県指定有形文化財)です。萩七代藩主、毛利重就が安永5年(1776年)に三田尻の別邸内に建てたものです。昭和34年に現在地に移転されたものです。

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   松陰神社の鳥居前にある、「松浦松洞誕生地」です。松洞は幼い頃から絵が得意で京都で学び、その後、松下村塾に入塾しました、松陰が江戸に送られる直前に肖像画を画きました。その肖像画は松陰神社に保存されています。文久2年に自決しました。

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  「伊藤博文旧宅」です。博文は天保12年(1841)山口県光市に生まれ、9歳の時に萩に移り、この家に住むようになりました。安政4年松下村塾に入塾し、その後、英国に留学、明治憲法制定に携わり、初代内閣総理大臣になりました。隣接して別邸が移築されています。

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   「全景」です。

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   室内の一部です。

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  宅地の一隅に「伊藤博文の銅像」が建立されています。

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  「玉木文之進旧宅」です。文之進は松陰の父、杉百合之助の末弟で文化7年(1810)に生まれました。後に玉木家を継ぎました。天保13年(1842年)近くの子供を集めて塾を開き、松下村塾と名付けました。故にこの地が松下村塾の発祥の地です。

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  「玉木文之進旧宅」です。

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  「吉田松陰誕生地」です。団子岩と呼ばれる風光明媚な所で、天保元年(1830)に萩藩士 杉百合之助の二男として生まれました。誕生地の碑が建っています。

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  住居の地割りがしてあります。

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   高台にあり、萩市内が一望できる場所です。

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  敷地の側に、吉田松陰、金子重輔の銅像が建っています。

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   誕生地の横に松陰、晋作の墓所があります。

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   松陰の門下の逸材、「高杉晋作の墓」です。慶応3年(1867年)に没しました。

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  「吉田松陰のお墓」です。この一帯は吉田家を始め、杉家、玉木家、門下生などの墓所となっています。

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  「東光寺」です。東光寺は黄檗宗の寺院で、元禄4年(1691年)三代藩主毛利吉就が建立しました。墓所には毛利三代藩主から十一代までの奇数藩主夫妻が埋葬されています。また中国風の雄大華麗な伽藍が建ち並び、京都の万福寺を思はせます。

  「総門」(重要文化財)です。元禄6年(1693年)建立されました。

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  「三門」(重要文化財)です。文化9年(1812年)毛利斎照により建立されました。桁行11.4m梁間6.5mの2階二重門です。2階には毘盧遮那仏・十八羅漢が安置されています。堂々とした風格に圧倒される思いがします。

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  「三門」を潜ると長い参道が続きます。

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  「鐘楼」(重要文化財)です。元禄7年(1694年)4代藩主毛利吉広によって寄進されました。

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  「大雄宝殿」本堂(重要文化財)です。元禄11年(1698年)建立です。ご本尊は釈迦如来、脇士迦葉尊者、阿難尊者の三尊仏をお祀りしています。

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  「墓所」への道です。

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   「御廟」といわれるこの墓所には、東光寺開基の三代藩主夫妻などが正面に、右手、左手には一族関係者のお墓があります。また家臣が寄進した約500基の石燈篭が整然と並び圧倒されます。辺りは鬱蒼とした樹林に囲まれて、荘厳な雰囲気が漂よっています。

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  「東光寺」を最後に萩観光を終えて、東光寺からの急坂を自転車を走らせて萩橋へ戻ってきました。宿のそばの松本川を、夕焼けを迎える橋上から「しら魚漁」を少し覗いて宿に帰りました。いよいよ明日の最終日は津和野へと向かいます。

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 お天気も良いのでサイクリングツアーも快適です。各所に駐輪場も設けられているので、適当に歩いて見物に切替えられるのがグッドです。

  

   「外堀」に沿って南北に通る「外堀通」です。

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  「外堀通」より、西へ萩城・堀内地区に向かいます。正面に田中大将の銅像が建っています。

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  「田中大将像」です。

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  この辺り大きな公園になっていて、駐車場もあり、「萩博物館」もあります。

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  「萩博物館」です。萩というテーマーで、自然、歴史、民俗、産業、美術工芸などの資料を収集保管し、展示しています。前庭の夏みかんです。

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   「博物館」の全体像です。

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  「井上剣花坊」の「詩碑」です。剣花坊は明治3年1870年に生まれ、明治36年上京し、日本新聞社に入社し、革新的川柳を発表し続け、正岡子規に対し、新川柳の井上剣花坊と呼ばれました。(憧れを画けと空はただ蒼し)

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   同じく「井上剣花坊」の詩碑です。

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  「堀内地区」は指月山に城を築き、町割を行い、萩城三の丸あたりに藩の諸役所と大身の武家屋敷の地割りが行われ、堀内地区として、歴史的な姿を今も伝えています。

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  長く続く土塀や白壁が萩の特色を良く見せています。

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  「旧毛利家別邸表門」です。桁行10.9m梁間3.8m棟髙5.2mという規模の雄大さで、材質もケヤキが使用されています。

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  「天樹院」です。萩藩主毛利輝元の墓所で、毛利家の天樹院墓所となっています。唐門と長い敷石の参道の奥に、夫人及び殉死者長井次郎左衛門の墓石3基があります。

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   玉垣、鳥居、石燈篭、と静かな環境にあります。

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  「萩城跡」に向かいます。城跡の入口には、「毛利輝元の像」が建っています。輝元は豊臣政権下では五大老の一人として権勢を振るいましたが、総大将として臨んだ関ヶ原の戦いで敗れ、長門、周防二国に移封され、その後、慶長9年(1604)居城を萩に築城し、萩藩経営の安定に腐心しました。

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  「萩城」は、標高143mの指月山の麓に本丸が築かれ、指月城とも呼ばれています。平城の部分と、山頂の山城の部分を合わせた平山城です。庭園や石垣、堀の一部が往時の姿をとどめています。

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  「指月公園」となっています。奥は「志都岐山神社」です。

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  「天守閣跡」です。

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   「天守閣跡」から見る内堀です。

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  なだらかな姿を見せる「指月山」です。

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   掘割の「指月橋畔」の「萩八景遊覧船乗場」です。遊覧船に乗船してみました。

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  左右の「堀内」の「伝統的建造物保存地区」を船から眺めながら「橋本川」に向かいます。

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  川幅の広い「橋本川」は水深が浅く、船頭さんの巧みな棹裁きで屋形船は進みます。

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  「白壁」が300mも続く「旧田中邸」が見えます。白壁のそばが遊歩道になっています。

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   この先は「阿武川」と合流して「日本海」に注ぎます。

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  「掘割」と「夏みかん」の風景です。

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   Uターンして「指月山」と「萩城跡」を日本海から眺めています。

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  「日本海」です。乗船場に戻り、堀内地区をさらに巡ります。

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  「旧福原家萩屋敷門」です。この門は、萩藩、永代家老福原家の上屋敷の表門です。切妻造り、本瓦葺きの三間三尺の出入口を持つ腕木門で、両袖に潜り戸がつく、上級武家屋敷にふさわしい風格と規模があります。

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  「土塀」に「夏みかん」と萩にふさわしい風景です。

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  「堀内地区」の武家屋敷の連なる町並みです。

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  「北の総門」です。北の総門は、中の総門、平安古の総門とともに、城下から三の丸に入る城門として設置されていました。平成16年に復元されたものです。

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  堀端にある樹齢300年の「イヌマキ」の大木です。

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  「旧明倫館跡」です。萩城、三の丸の南側に享保3年に創建された、萩藩校明倫館の跡地です。全敷地は940坪あったと言われ、嘉永2年(1849年)萩城下の江向の地に移るまで、130年にわたって、藩政を担う藩士育成の場となっていました。

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  「旧児玉家長屋」です。萩城、三の丸の平安古総門に隣接していた児玉家は大身武士で、この長屋は、屋敷の西側道路に沿って建てられていたもので、木造平屋建、白壁と腰はなまこ壁となっています、よく旧態を保っています。gi64.JPG

  裏に回って見たところです。

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  「春日神社」です。高杉晋作の畏敬する氏神様で、百日参りや、7歳の誕生日の著袴式もこの神社で行ったと言われています。

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   「本殿」です。

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 この後、自転車を飛ばして、御幸通を一路東へ、松陰神社へと向かいました。

 

 2日目は仙崎駅から長門市駅へ移動し、萩へ向かいます。

 長門市駅から東萩駅行きの一両編成のワンマンカー気動車で移動します。山陰本線も列車本数が少ないので大変です。始発駅なので、すでに入線して乗客を待っています。

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  日本海に沿って走るので、車窓からは美しい海岸の眺めを堪能できます。

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  「東萩駅」です。今日は駅前のレンタサイクル店で自転車を借り市内見物です。天気も回復して晴れてきました。

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  松本川、萩橋の袂の宿に荷物を預けて出発です。

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  まず、「野山獄跡」です。野山獄は岩倉獄と隣接し、野山獄は、上牢として士分のの者を収容し、「岩倉獄」は庶民を収容しました。海外渡航に失敗した吉田松陰は野山獄に、共に行動した金子重之助は岩倉獄に収容されました。牢での扱いも違ったようです。

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  「岩倉獄跡」です。

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  城下町地区に向かう途中にあった、「山田顕義旧邸」です。山田顕義(1844〜1892年)は萩城下、松本に生まれ、松下村塾に入門し、その後、司法大臣、貴族議員など歴任し、日本大学、国学院大学を創設しました。

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  「萩城下町」です。城下町は呉服町通りを中心に江戸屋敷町、伊勢屋横町、菊屋横町などを指します。

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  城下町らしい佇まいを見せています。梅の花が咲いています。

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  「野田七郎左衛門」嘉永年間(1848〜1854)の旧宅です。木造平屋建、門と土塀など、江戸時代、武家屋敷の面影を伝えています。

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  「木戸孝允」(1833〜1877)の旧宅です。 藩医の子として生まれ、幼名は桂小五郎と名乗り、維新では、西郷隆盛、大久保利通、と共に維新三傑と呼ばれた木戸孝允は、明治政府の重鎮となりました。

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  「御成道」です。萩焼などのお店や古美術商などのお店が点在しています。

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  「桂 太郎」(1847〜1913)の旧宅です。維新前後、国事に活躍し、内閣総理大臣となりました。

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  「御成道」です。

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  「菊屋家住宅」です。萩藩の御用を勤めた豪商の家です。江戸初期の建物です。

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  「菊屋家」の向いにある、「旧久保田家住宅」です。江戸後期の建物で、酒造業、呉服商を営んでいました。

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  「菊屋敷横町」です。美しい白壁となまこ壁が続く通りです。この通りには、田中義一や高杉晋作の誕生地があります。

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  「菊屋敷横町」です。

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  「田中義一」(1863〜1929)の誕生地です。大正14年に政友会総裁となり、昭和2年には内閣総理大臣となりました。

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  「高杉晋作」の生家です。幕末の風雲児、晋作由縁の品や展示があります。

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  晋作が「東行」称し詠んだ句碑です。

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  住宅が展示室になっています。

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  「庭園」です。

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  晋作誕生地のそばにある「晋作広場」、高杉晋作立志像があります。

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  「木戸孝允誕生地」です。

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  「唐樋場札場跡」で、高札場を復元したものです。幕府や藩からの御触れを記した高札を掲示した場所です。またこの場所で、磔や獄門の刑に処せられた罪人を見せしめのためのさらし場となりました。

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  「前原一誠旧宅」です。当時のまま現存されています。前原一誠は、松下村塾の塾生で、維新後の新政府と意見が合わず、後に萩の乱で破れ、刑死しました。

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  「旧繁沢家長屋門」です。繁沢家は毛利家の分家で、藩の要職として活躍した人です。

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  「旧益田家物見矢倉」です。益田家は、萩藩の家老で幕末、藩主毛利敬親を助けて藩政改革を行ったが、元治元年禁門の変で責任者として切腹させられました。高い石垣の上に作られた矢倉(武器を入れた倉)は見張にも使われたといわれています。

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  「明倫館跡」の出入口です。

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  「南門」です。(市指定有形文化財)新明倫館の正門として建てられたものです。公式行事以外は開かれなかったもので、本願寺山口別院に移され、正門となっていましたが、平成16年もとのこの地に移されました。

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  「明倫館碑」です。(国指定史跡)左側の碑は、元文6年(1741年)6代藩主毛利宗広が創立の由来を伝えるために建てました。右の碑は、嘉永2年(1849)13代藩主毛利敬親が新明倫館の開校を記念して建てたものです。

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  「旧明倫小学校本館」です。(文化庁有形文化財)藩校明倫館跡地に昭和10年に建てられた、木造2階建の小学校校舎です。

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  「旧明倫小学校本館」です。

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  「聖賢堂」です。(市指定有形文化財)観徳門の左右にあった東塾、西塾の遺構です。両塾を合わせて一棟として保存されています。

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  「観徳門」です。(市指定有形文化財)孔子を祀った聖廟の前門で、本願寺萩別院で客殿門となっていましたが、昭和57年この地に移されました。

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  「有備館」(国指定史跡)です。有備館は、旧明倫館の剣術場と槍術場を移して拡張したもので、木造平屋建で藩主の上覧場などあり、南北に長い建物です。

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   城下町から堀内町・萩城跡方向に向かいます。

 

 JR西日本から発売された「おとなびパス」「JR西日本線3日間乗り放題!」を利用して一人旅を楽しんできました。

 第1日目は、早朝、山陽新幹線で厚狭駅へ、そこで美祢線に乗換え、山口県を横断、長門市駅から仙崎(せんざき)へ向かいました。仙崎は、近来とみに名高い童謡詩人「金子みすゞ」の故郷であり、また国定公園に指定されている「青海島」(おおみしま)の奇岩景勝で知られています。また漁業の町として、新鮮な魚介類が水揚げされ、名産の蒲鉾の製造も行われています。

 

  「厚狭駅」から美祢線へ、1両編成のワンマンカーの気動車が待っていました。

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  予報通りの雨の中、山口県の山間部を縫いながら走ります。途中列車に倒木の衝撃音があり急停車、運転手さんが司令室に連絡をとりながら倒木を処理、間々ある事なのか、鋸を持参して乗務されているのに驚きました。

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  予定より遅れて仙崎駅に到着、乗降客が少ないのに比例して、賑やかなホームの風景です。

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  改札口やコンコースなどの壁面には「蒲鉾板によるモザイク画」が迎えてくれます。

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  閑散とした「駅正面」で少し淋しい風景ですが、このような古風な駅舎は郷愁を感じます。

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  駅正面の通りが「みすゞ通り」と呼ばれ、駅から北へ約1キロ、海岸線まで延びる昔からの風情が残る道筋です。その始点に説明版が設置されています。

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  構内の一画にある、金子みすゞ詩碑「星とたんぽぽ」です。

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  「青海島」の奇岩景勝を海上から一周して眺める観光船は、海が荒れて欠航となり、やむなく車で島に渡り、遊歩道を歩いてきました。

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  整備された「遊歩道」です。

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  「青海島」を海上アルプスと命名し、全国に紹介した、横山白虹の句碑です。(鳥瞰路 黒潮へ 没る日の上を 鵜が翔くる)

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  断崖に砕ける波を見ていると引き込まれそうです。

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   「瀬叢」(せむら)と呼ばれる岩礁の集まりです。皇居宮殿の壁画として、東山魁夷によって描かれた場所です。

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  かもめ岩、十六羅漢、変装行列などと名付けられた岩石群です。

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  「静ヶ浦」周辺です。

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   日本海の荒波に揉まれた、このような奇岩の連続ですが、その一部しか眺められないのは残念です。

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  「青海島」からの帰途、「青海大橋」で下車。幸い雨も小降りとなり、仙崎の町を散策しました。正面の橋は青海島へ渡る「青海大橋」です。右の港は博多、舞鶴と共に敗戦後の海外からの引揚げ者を迎え入れた「仙崎港」です。 

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  「青海大橋」が開通するまで、青海島へ渡るための渡船の「瀬戸の渡し」の発着場の名残です。

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  その発着場の岸壁に取付けられた、金子みすゞの「瀬戸の雨」の詩銘板です。

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   「みすゞ通り」を南へしばらく行くとみすゞの墓所がある「遍照寺」があります。山門です。

 

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   このお寺にもみすゞの詩碑「こころ」があります。

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  「金子みすゞの墓所」です。常に多くの人のお参りがあるのでしょう、多くのお花が供えられていました。

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   「みすゞ通り」です。

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   仙崎の人々の郷土の誇り「金子みすゞ」を顕彰するために、多くの家々には、思い思いの詩を、また写真を掲げて彼女を偲んでいます。

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  「極楽寺」の山門です。みすゞもこのお寺の詩を詠んでいます。

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  広い境内です。「極楽寺の梵鐘」として有名です。

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   「極楽寺」のそばの民家に掲げられた「極楽寺」の詩です。

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   「みすゞ通り」に残る、大正時代から醤油屋を営んでいたいた「五嶋家」です。

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   「プロジェクト M2000」です。地元の若者が中心になって、取組んでいる「プロジェクト M2000」。仙崎名産の蒲鉾板を組合せ、みすゞの詩「大漁」をモチーフにした、巨大モザイク画を制作した一大プロジェクトです。蒲鉾板20.000枚に、市民や観光客などのメーセージが書込まれています。

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  浜辺で大漁を祝う漁師の姿が描かれています。

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  「蒲鉾板のメッセージ」です。

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  スイッチを切替えると「大羽鰯」の大群が浮かび上がります。市民の熱意による力作です。

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  なんともユニークな「喫茶店」です。内部は落着いた雰囲気でお茶を楽しむことができます。

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  仙崎名産の「蒲鉾屋」さんです。

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  みすゞの詩碑「角の乾物屋の」です。

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  「海の郷 錦町商店」のモザイク画です。金子記念館の前です。

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  「鯨捕り」のモザイク画です。蒲鉾板3.900枚使用されています。

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  「郵便局の椿」の詩の題材になった、実家の向いの郵便局です。

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  みすゞ直筆の「郵便局の椿」の銘板が掲げられています。

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   「みすゞの実家」「金子文英堂」です。みすゞが20歳になる、大正12年(1923年)まで過しました。みすゞは、大正後期に彗星のようにあらわれた詩人で、その後、下関に移り、26歳の若さで自らこの世を去りました。下関での詩人として西条八十に認められながらも、本名テルとして、虐げられた結婚生活は、東京の劇団「てがみ座」の上演で「空のハーモニカ」としてよく描かれています。短い生涯に、512編の詩を残し、その中にふるさと仙崎への思いを込めた作品が多くあります。

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  「金子文英堂」の内部です。

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   1階の座敷です。

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    2階の「みすゞの部屋」を再現したものです。

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   金子文英堂に併設されている「金子みすゞ記念館」です。彼女の短い生涯を展示物などで紹介しています。

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  「記念館前」から駅方面の「みすゞ通り」です。

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  仙崎の町西側に広がる「深川湾」です。

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  明治6年創立の「仙崎小学校」です。

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  校内にある、「わたしと小鳥とすずと」の詩碑です。

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   駅前の近くの「瀬戸崎小学校跡」です。

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  「観光船乗場」の公園にあるみすゞの詩碑「大漁」と胸像です。

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  仙崎湾に臨む「園究寺」です。

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  山門を入ったところに「山頭火の詩碑」があります。

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  早朝5時過ぎ、「仙崎港」に漁船が続々帰ってきます、活気の溢れる漁港を見にいきました。

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  広い漁協の建物に水揚げされた魚が並べられています。

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   「セリ」も始まりました。

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   宿に帰り、朝食を済ませて、次の目的地萩へ向かいます。

 

 

 戦国時代の舞台となり、戦乱をかいくぐり保持されてきた湖東から湖北にかけての町々には、城跡や名刹など、また物資の流通による商人の台頭などによって、歴史の宝物としてみるべきものが多いように思います。今回は近江八幡の町です。

 近江八幡は平成22年(2010年)旧の近江八幡市と安土城で名高い安土町が合併して新しく近江八幡市となりました。豊臣秀次が築いた城下町を基礎として、商業都市して発展した町で、五個荘町、日野町を含めて近江商人の発祥の地として良く知られています。

 近江八幡の散策は駅から車で10分、小幡上筋の交差点から始まります。この交差点を西に進むとヴォーリズが手掛けた池田町洋風住宅街があります。  「池田町洋風住宅街」(ヴォーリズ建築群)「ウオーターハウス記念館」です。 

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  池田町洋風住宅街 「旧ウォーターハウス邸」(大正2年1907年)建築です。

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  住宅街を北に進むと「本願寺八幡別院」です。本願寺顕如上人の開基で、蒲生野に建立されましたが、文禄元年(1592年)豊臣秀次が八幡山に築城する際、現在地に移転したものです。表門です。

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  「本堂」です。

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 「八幡別院」から「願成就寺」への町並みです。

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  「願成就寺」山号は、日杉山普門院願成就寺といい、 近江湖東27名刹霊場 21番札所となっています。 推古27年、聖徳太子の建立と伝えられています。ご本尊は木造観音立像(重要文化財)で、かやの木で聖徳太子作と伝えられています。長い石段の参道を上ります。

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   「本堂」です。

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  「不動堂」です。

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   「芭蕉句碑」があります。 (五月雨に鳩の浮巣を見に行かん)

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  「池田町の民家」です。このあたりから、八幡堀にかけて、古い民家や商家が立ち並んでいます。

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  「本町」「中村四郎兵衛邸」です。 享保5年創業の呉服店で現在も営業されています。

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  「旧伴家住宅」です。現在八幡教育会館となっています。

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  「近江八幡市立資料館」で、ヴォーリズの建築です。近江商人の代表的な人物、西村太郎右衛門の宅地跡で、旧近江八幡警察署です。現在その建物を利用して、郷土資料館となっています。本日は休館日です。

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  「新町通り」 碁盤の目の通りに、近江商人の豪商の居宅が軒を連ねています。

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  「森五郎兵衛邸」です。

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  左、「大文字屋 西川利右衛門邸」です。

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  「新町通り」を北に抜けるとお馴染の八幡堀に出てきます。八幡堀は城を防御するためのものですが、豊臣秀次は運河として利用し、近江の町の発展に寄与し、多くの商人が全国的に活躍するようになりました。物資の集積場となった新町浜です。

 

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   新町浜を後に、堀に沿って東へと歩を進めます、八幡堀に架かる「明治橋」です。

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  「明治橋」を潜りなおも行くと、「日牟禮八幡宮」の参道の「白雲橋」が見えます。一時、堀の埋立ても検討されたようですが、その後美しく整備されて憩いの場となっています。

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  「白雲橋」から「日牟禮八幡宮」へと向かいます。

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  橋を渡ると「大鳥居」が姿を見せます。

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  日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)は八幡山の山麓にある神社で、平安時代の創建といわれ、宇佐八幡宮を勧請したものといわれています。ご祭神は、誉田別尊など3神で、古くから近江商人の信仰を集めています。3月の左義長まつり、4月の八幡まつりは有名です。

  「楼門」です。

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  「拝殿」です。

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  「本殿」です。

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  「能舞台」も備えています。

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   「白雲橋」に戻り八幡堀をさらに東へ、土蔵が連なっています。

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  「かわらミュージアム」の白壁が目を惹きます。

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  「白雲橋」の袂に「白雲館」があります。「白雲館」は明治10年に八幡東小学校として建てられたもので、このモダンな建物は現在は観光案内所となっています。

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  「白雲館」の前を西に進むと、右側に「西川甚五郎本宅」があります。

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  「西川家」の西側に「ヴォーリズ像」が立っています。その道を隔てた南側にヴォーリズが創業した、メンソレータムでお馴染の近江兄弟本社があります。ヴォーリズは1880年米国のカンザス州レプンワースに生まれ、1905年キリスト教の伝道師として、八幡商業高校に英語教師として赴任し、様々な分野で活躍しました。

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  ヴォーリズ像からまた東に戻り、慈恩寺町通りや博労町通りを歩きながら近江八幡駅へと南下します。 「尾賀邸(尾賀商店)」です。

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  「ヴォーリズ記念館」です。建築はもちろん教育や医療など幅広い分野で活躍したウイリアム・メレル・ヴォーリズが生活していた住宅です。近江八幡の名誉市民になっています。

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 「近江兄弟社学園」です。

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   学園の南側に「ハイド記念会館、教育会館」があります。ヴォーリズが手掛けた建物です。

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  永原町通り 醤油屋さん。

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   「旧八幡郵便局」 1921年 ヴォーリズ設計です。 現在はギャラリーとして使用されています。

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  「アンドリュース記念館」(旧近江八幡YMCA会)1907年竣工 ヴォーリズ設計です。

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  ヴォーリズの手掛けた「近江八幡教会」です。907年建てられましたが1981年失火により焼失、1983年に再建されました。

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  下水道のマンホールです。八幡堀が描かれて桜が咲き誇っています。
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  「八幡商業高校」 ヴォーリズの設計です。 近江商人の多くがこの学校で学んだといわれています。

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  正面玄関から内部の一部です。

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 「JR近江八幡駅」に戻ってきました。

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