2日目は仙崎駅から長門市駅へ移動し、萩へ向かいます。
長門市駅から東萩駅行きの一両編成のワンマンカー気動車で移動します。山陰本線も列車本数が少ないので大変です。始発駅なので、すでに入線して乗客を待っています。
日本海に沿って走るので、車窓からは美しい海岸の眺めを堪能できます。
「東萩駅」です。今日は駅前のレンタサイクル店で自転車を借り市内見物です。天気も回復して晴れてきました。
松本川、萩橋の袂の宿に荷物を預けて出発です。
まず、「野山獄跡」です。野山獄は岩倉獄と隣接し、野山獄は、上牢として士分のの者を収容し、「岩倉獄」は庶民を収容しました。海外渡航に失敗した吉田松陰は野山獄に、共に行動した金子重之助は岩倉獄に収容されました。牢での扱いも違ったようです。
「岩倉獄跡」です。
城下町地区に向かう途中にあった、「山田顕義旧邸」です。山田顕義(1844〜1892年)は萩城下、松本に生まれ、松下村塾に入門し、その後、司法大臣、貴族議員など歴任し、日本大学、国学院大学を創設しました。
「萩城下町」です。城下町は呉服町通りを中心に江戸屋敷町、伊勢屋横町、菊屋横町などを指します。
城下町らしい佇まいを見せています。梅の花が咲いています。
「野田七郎左衛門」嘉永年間(1848〜1854)の旧宅です。木造平屋建、門と土塀など、江戸時代、武家屋敷の面影を伝えています。
「木戸孝允」(1833〜1877)の旧宅です。 藩医の子として生まれ、幼名は桂小五郎と名乗り、維新では、西郷隆盛、大久保利通、と共に維新三傑と呼ばれた木戸孝允は、明治政府の重鎮となりました。
「御成道」です。萩焼などのお店や古美術商などのお店が点在しています。
「桂 太郎」(1847〜1913)の旧宅です。維新前後、国事に活躍し、内閣総理大臣となりました。
「御成道」です。
「菊屋家住宅」です。萩藩の御用を勤めた豪商の家です。江戸初期の建物です。
「菊屋家」の向いにある、「旧久保田家住宅」です。江戸後期の建物で、酒造業、呉服商を営んでいました。
「菊屋敷横町」です。美しい白壁となまこ壁が続く通りです。この通りには、田中義一や高杉晋作の誕生地があります。
「菊屋敷横町」です。
「田中義一」(1863〜1929)の誕生地です。大正14年に政友会総裁となり、昭和2年には内閣総理大臣となりました。
「高杉晋作」の生家です。幕末の風雲児、晋作由縁の品や展示があります。
晋作が「東行」称し詠んだ句碑です。
住宅が展示室になっています。
「庭園」です。
晋作誕生地のそばにある「晋作広場」、高杉晋作立志像があります。
「木戸孝允誕生地」です。
「唐樋場札場跡」で、高札場を復元したものです。幕府や藩からの御触れを記した高札を掲示した場所です。またこの場所で、磔や獄門の刑に処せられた罪人を見せしめのためのさらし場となりました。
「前原一誠旧宅」です。当時のまま現存されています。前原一誠は、松下村塾の塾生で、維新後の新政府と意見が合わず、後に萩の乱で破れ、刑死しました。
「旧繁沢家長屋門」です。繁沢家は毛利家の分家で、藩の要職として活躍した人です。
「旧益田家物見矢倉」です。益田家は、萩藩の家老で幕末、藩主毛利敬親を助けて藩政改革を行ったが、元治元年禁門の変で責任者として切腹させられました。高い石垣の上に作られた矢倉(武器を入れた倉)は見張にも使われたといわれています。
「明倫館跡」の出入口です。
「南門」です。(市指定有形文化財)新明倫館の正門として建てられたものです。公式行事以外は開かれなかったもので、本願寺山口別院に移され、正門となっていましたが、平成16年もとのこの地に移されました。
「明倫館碑」です。(国指定史跡)左側の碑は、元文6年(1741年)6代藩主毛利宗広が創立の由来を伝えるために建てました。右の碑は、嘉永2年(1849)13代藩主毛利敬親が新明倫館の開校を記念して建てたものです。
「旧明倫小学校本館」です。(文化庁有形文化財)藩校明倫館跡地に昭和10年に建てられた、木造2階建の小学校校舎です。
「旧明倫小学校本館」です。
「聖賢堂」です。(市指定有形文化財)観徳門の左右にあった東塾、西塾の遺構です。両塾を合わせて一棟として保存されています。
「観徳門」です。(市指定有形文化財)孔子を祀った聖廟の前門で、本願寺萩別院で客殿門となっていましたが、昭和57年この地に移されました。
「有備館」(国指定史跡)です。有備館は、旧明倫館の剣術場と槍術場を移して拡張したもので、木造平屋建で藩主の上覧場などあり、南北に長い建物です。
城下町から堀内町・萩城跡方向に向かいます。
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