2014年2月アーカイブ

源氏物語「宇治十帖」

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 教科書にも取り入れられて、誰もが知る紫式部の「源氏物語」全編54帖のうち、その番外編ともいうべき、最後の十帖は、薫君と匂宮と宇治の三姉妹の恋物語が主な内容で、橋姫(一帖)で始まり、夢浮橋(十帖)で終わり、宇治川と宇治川周辺が、その主な舞台となり、宇治十帖と呼ばれています。
 その物語に因み、古くから古跡が点在しています、それらを訪ねて、遠く平安時代に思いを馳せるのも一興かなと巡ってきました。


 降り立った、ちょっと変わった姿の「JR宇治駅」です。ここから東に歩いて宇治橋に向かいます。
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 まず、宇治川にかかる宇治橋西詰めです。
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 宇治十帖の古跡の各所には、宇治市文化財保護協会が物語を要約して、この写真ように駒形高札にして立ててあります。
(各古跡のコメントは、この駒札を抜粋して転載しております)。
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 宇治橋西詰にある、紫式部の石像と、夢浮橋の古跡です。
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 源氏物語 宇治十帖(十) 夢浮橋(ゆめのうきはし)
 薫君は、小野の里にいるのが、浮舟であることを聞き、涙にくれる。
 薫君は浮舟の弟の小君に、自分の文を添えて持って行かせた。浮舟は、なつかしい弟の姿を覗き見て、肉親の情をかきたてられ母を思うが、心強く、会おうともせず、薫君の文も受け取らなかった。
 小君は姉の非常を恨みながら、仕方なく京へ帰って行った。
 「法の師とたづぬる道をしるべにして思はぬ山に踏み惑うかな」

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  源氏物語 宇治十帖(一)橋姫(はしひめ)
 「その頃、世に数まへられ給はぬふる宮おはしけり」と宇治十帖は書き始められる。
 晩秋の月の夜、薫君は琵琶と琴を弾かれる姫君たちの美しい姿を垣間見て、「あはれになつかしう」思い、
 「橋姫の心をくみて高瀬さす 棹のしずくに袖ぞぬれぬる」 と詠んで大君に贈った。

 (県(あがた)神社通りの大鳥居を越えたすぐ左側にあります。)
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 「県神社」に寄ってお参りしてきました。
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 県神社からすぐそばの「平等院南門」です。
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 平等院から塔の島へ掛かる「喜撰橋」です。
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  塔の島十三重石塔のそばの「柿本人麻呂」の歌碑です。
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 歌碑の揮毫者は、古谷蒼韻氏です。
 「もののふの八十氏河の網代木に いざよふ波の行く方しらずも」と刻まれています。
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 源氏物語 宇治十帖(五) 宿木(やどりぎ)
 秋、薫君は宇治の山荘を御堂に改造することとし弁尼を訪れる。そして共に大君の思い出に浸り、
「宿りきと思い出でずば木のもとの 旅寝もいかに寂しからまし」と口ずさみ、紅葉を中君への土産にお持たせになり匂宮に恨まれる。
 
 (宇治川左岸の平等院道の、料理屋さんや旅館街を抜けた、すぐの所にあります。)
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 源氏物語 宇治十帖(四) 早蕨(さわらび)
 年改まり、宇治の山荘にも春が来た。今年も山の阿闍梨から蕨や土筆などが贈られてきた。
中君は亡き父君や姉君を偲びつつ「この春はたれにか見せむ亡き人のかたみにつめる峰の早蕨」と返歌なさった。
 
 (宇治神社のはずれ、宇治上神社参道脇にあります。)
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 「与謝野晶子歌碑」です。
 源氏物語礼賛によって、宇治十帖の関連した詠歌が刻まれています。

  橋姫   しめやかに心の濡れぬ川ぎりの 立舞ふ家はあはれなるかな
 椎が本  朝の月涙の如し眞白けれ 御寺のかねの水わたる時
 総角   こころをば火の思いもて焼かましと 願ひき身をば煙にぞする
 さわらび さわらびの歌を法師す君に似ず よき言葉をば知らぬめでたさ
 宿り木  あふけなく大御女をいにしへの 人に似よとも思ひけるかな
      と刻まれています。
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  源氏物語 宇治十帖(三) 総角(あげまき)
  八宮の一周忌がめぐって来た。薫君は仏前の名香の飾りに託して、大君への想いを詠んだ。
 「総角に長き契りを結びこめ おなじ所によりもあはなむ」
  大君は父宮の教えに従い、自らは宇治の山住みで果てる意思が堅く、妹の中君をこそ薫君に委ねたいと望まれた。
 
 (源氏物語ミュージアム近く、与謝野晶子歌碑のそば、仏徳山(大吉山)の登り口にあります。)
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  「源氏物語ミュージアム」からしばらく歩いて、三室寺へ向かう三差路に立っています。
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 源氏物語 宇治十帖(八) 蜻蛉(かげろう)
 都では華やかな日々を送りながらも薫君は、大君や浮舟との「つらかりける契りども」思い続けて愁いに沈んでいた。
 ある秋の夕暮れ、薫君は、蜻蛉がはかなげに飛び交うのを見て、ひとり言を口ずさむのだった。
 「ありと見て手には取られず見れば又 ゆくへも知らず消えし蜻蛉」

 (ちょっとわかりにくいですが、源氏物語ミュージアムから三室戸寺方向へ5分ほど歩いた、都倉病院と翔英高校との間の道を右に入ったところにあります。自然石に阿弥陀三尊が線彫がしてあります。)

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  源氏物語 宇治十帖(七) 浮舟(うきぶね)
  如月の十日頃、雪の中、宇治を訪れた匂宮は、かねて用意させていた小舟に浮舟を乗せ、橘の小島に遊び、対岸の小家に泊まって一日を語り暮した。
 「橘の小島は色もかはらじを この浮舟ぞゆくへ知られぬ」
  浮舟は、薫君との二人の間でさまざまに思い悩んだ末、遂に死を決意する。
  
 (三室寺境内の、本堂と鐘楼の間に建立されています。)
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  源氏物語 宇治十帖(九) 手習(てならひ)
  僧都はその夜、宇治院の裏手で気を失って倒れている女を見つけた。この女こそ失踪した浮舟であった。
 僧都の妹尼は、亡き娘の再来かと手厚く介抱し、洛北小野の草庵に連れて帰った。意識を取り戻した浮舟は素性を明かそうともせず、ただ死ぬことばかりを考え泣き暮らした。やがて秋、浮舟はつれづれに手習いをする。
 「身を投げし涙の川の早き瀬を しがらみかけて誰かとどめし」
 
 (府道7号線京都宇治線、京都銀行三室戸支店の前にあります。)
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  源氏物語 宇治十帖(二) 椎本(しいがもと)
  薫君は八宮を仏道の師と仰いで、宇治を訪れ、姉の大君に強く心を引かれていく。八宮は死期の近いことを感じ、姫君たちに身の処し方について遺言し、信頼している薫君に姫君を頼み、秋も深いころ、阿闍梨の山寺で、さみしく静かに波乱の生涯を閉じられた。
 「たちよらむ蔭と頼みし椎が本 むなしき床になりにけるかな」
 
 (府道7号線京都宇治線を手習いの古跡から、宇治橋方面に歩いて京阪宇治駅近く彼方(おちかた)神社にあります。)
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  源氏物語 宇治十帖(六) 東屋(あずまや)
  晩秋、宇治を訪れた薫君は、弁尼から浮舟の所在を聞き、ある時雨模様の夜に訪ねて行く。
「さしとむる葎(むぐう)やしげき東屋の あまり程ふる雨そそぎかな」
  翌朝、薫君は浮舟を連れて宇治へと向かった。薫君にとって浮舟は、亡き大君の形見と思われた。
 
 (京阪宇治駅前東側、東屋観音と呼ばれる石像が宇治橋東詰めにあります。)
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冬の「仁和寺」

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 いつも見慣れている風景の仁和寺、京都にも久し振りの雪が降った朝、薄く雪化粧した仁和寺を訪れました。
 普段と違って、また趣の変わった静謐な境内に、心を洗われる思いでした。
 
 
 いつも仰ぎ見る、風格のある仁王門です。

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 仁王門から、広々とした参道を中門へ。
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 中門の背景には、仁和寺の八十八ケ寺巡りの山も雪を被っています。
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 中門です。
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 中門から金堂への参道です。
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 御室桜の樹木も、雪の花を咲かせています。
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 金堂への参道です。
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 普段昼間の喧騒から開放された、静謐な参道です。
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 金堂が青空に映えて美しい姿を見せています。
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 経蔵前から金堂です。
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 経蔵です。
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 雪の薄化粧の五重の塔です。
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府立植物園の「冬」

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 冬枯れの植物園は園庭では華やかさには欠けますが、観覧温室では洋ラン展を開催していました。
 園内は、臘梅は盛りで、また品種の多いつばき園では、それぞれに花を咲かせていました。


 観覧温室での洋ラン展をのぞきました
 
 「ステファンオリバーフォーレイカー」
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 「シィルビアフライシュプリーム」
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 「レーンマルケス」
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 「アリスガワ」
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 「ピンクパール」
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 「Rhy ギガンテア」
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 「和蘭「ひなまつり」
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 ツバキ園を巡ってきました。
 
 説明版です。
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 「白八重」
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 「白侘助」
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 「銀世界」
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 「雪月花」
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 「桃色雪中花」
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 「数寄屋」
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 「セイヨウバクチクノキ」
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 「セイヨウバクチクノキ」
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 「寒椿」
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 「菊冬至」
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 「紅唐子」
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 「有楽」
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  阪神電車の西宮駅に、灘の酒蔵の地図が置いてあったので、ちょっと興味を引かれて酒蔵巡りをしてきました。

 JRの住吉駅から六甲ライナーに乗換えて、住吉川沿いに南下、南魚崎駅で下車しました。
 この辺り一帯は、灘の酒造の「魚崎郷」と呼ばれている地域です。
 そこで酒蔵の道の標識と地図を頼りに、まず菊正宗酒造記念館、そして桜正宗記念館、魚崎八幡宮を経て、浜福鶴吟醸工房と廻り、最後に白鶴酒造資料館と立ち寄りました。

 京都伏見の酒蔵を想像していましたが、阪神大震災での壊滅的な被害で、どこの酒造会社も近代的な建物に姿を変えており、昔からの酒造会社の面影をしのぶ事は無理のようでした。

 いずこの記念館も同じような展示でしたが、浜福鶴吟醸工房では、現在の酒造の工程などを硝子越しに眺める事ができました。



 最後に訪れた、白鶴酒造資料館をご紹介します。
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 案内パンフレットです。
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 資料館の全景です。新しく建築された二階建ての資料館です。
 左側には、大きな酒造工房が奥まで連なっています。
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 資料館の入口です。
 大正初期に、本店一号蔵として使用されていた建物です。
 大震災で被害を受けましたが、修復再建されました。
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 1階の一部は売店となっています。
 また資料館として、現代の酒造りの工程など図解説明し、また歴史などを紹介しています。
 2階は昔の酒造りの工程を、豊富な道具類などと、人形を使って順序よく見る事ができます。
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 2階の全景です。
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 同じく2階の全景です。
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 1階の入口を入れば、この大きな貯蔵桶が目の前に現れます。
 重量物をわずかの力で上げ下ろしするための、「阿弥陀車」と呼ばれる道具と、「酒槽」(さかぶね)で度胆を抜かれます。2階と吹き抜けになっています。
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 阿弥陀車の上部です。
 八角形の車輪と車軸で作られており、その形が阿弥陀さんの光背に似て、この名前が付いたそうです。
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 酒造りの工程が順序良く展示されています。
 工程は 洗米(せんまい)蒸米(むしまい)放冷(ほうれい)麹取込み(こうじとりこみ)酛仕込み(もとしこみ)醪仕込み醪出し(もろみしこみ)上槽(じょうそう)滓引き火入れ(おりびきひいれ)貯蔵(ちょぞう)樽詰(たるづめ)となっています。
 元蒸し米の工程です。
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 使用された諸道具の展示です。
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 放冷(ほうおい)です。蒸した酒米を均等に冷やします。
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 酛摺り(もとすり)です。酵母を擂り潰す作業です。
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 最後の工程です。
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  桶の色々の種類が展示されてます。酛卸桶 試桶 半切桶 酛半切 水半切 洗半切 洞半切など。
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 貯蔵樽です。鏡開きに使用する鏡樽です。
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 商標の変遷を見せています。
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 広告用のポスタ写真に使用した舞子の図です。
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 蔵人(くらびと)の食事風景です。
 住込みでの厳しい酒造りの合間の楽しみの一つ食事風景です。
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(寄り道) 
 帰りに谷崎潤一郎の旧家、倚松庵(いしょうあん)別名「細雪の家」を訪れましたが、この日は内部見学は出来ませんでした。
 この家に昭和11年(1936年)から昭和18年(1943年)まで、松子夫人や妹たちと住み、細雪を執筆した舞台となった住まいです。
 但し、他の場所にあった住まいを、平成元年に、同じ東灘区のこの地に移設復元されたものです。
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 入口には石碑が据えられていました。
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(メモ)
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京の「節分祭」

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  京都の年中行事の中でも、節分行事は一般家庭でも広く行われている行事の最たるものの一つでしょう。
 子供の頃は、毎年あちらこちらの神社仏閣の節分会に、父に連れられていった思い出が数多くあります。
 「やっこ払いまひょう、厄払い」と声高に厄払いが町を回ったとも聞いています。
 昔と違って年々お参りの人々が増えて、どこもかしこも人波に揉まれて吃驚します。

 今年は、2日、3日と暖かいのを幸いに出歩いてきました。


 壬生寺節分厄除大法会
 
  京都の数ある節分行事の中で、吉田神社と共にその名を全国的に知られている壬生寺です。
 その厄除法会も、900年の長い歴史と伝統を今に伝えています。
 また京都の裏鬼門に(南西)に位置し、京都の節分鬼門詣りに多くの人がお参りします。
 大法会は、2月2日から4日まで三日間にわたって行われ、有名な壬生狂言「節分」は2日、3日と上演されます。
 
 
 参詣者で賑わう表門前です。
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 参道には、素焼きの焙烙を求める人が多く見られ。家内安全など願事を焙烙に書いて奉納するという珍しい風習があって、その焙烙は、4月の壬生狂言の「焙烙割」で割られる光景は、例年テレビ等で放映されているので全国的に良く知られています。
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 本堂には多くの参詣者が詰め掛けています。
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 日本髪の美しい女性も、ちらほら見かけました。
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 2日午後2時から、聖護院山伏衆の大護摩祈祷が行われ、信者から奉納された多くの護摩木を焚いて、厄除け開運を祈願されました。
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 多くのお参りの方々の見守るなか、儀式は弓矢や刀、斧などでもって、厄や災難を取り払います。また、壬生寺住職や山伏座主による祈祷文の奏上などがあります。
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  山伏衆の祈祷のうちに、護摩木が順次お祈りしながら投げ入れられていきます。
  勇壮な炎が立ち上るうちに終わりを告げます。
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法輪寺(達磨寺)の節分
 
 通称は達磨寺、号は大宝山、臨済宗妙心寺派です。
 だるま寺の名で多くの人に親しまれています。
 亨保12年(1727年)万海が創建されました。
 三国一と称する、起上り達磨をはじめ、諸願成就に奉納された、達磨約8000体を祀る達磨堂は有名で、節分は参詣者が多く賑やかです。

 
 だるまさんの飾りで賑わう門前です。
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 諸願成就を書いたお札さんを、達磨さんに貼付けて祈念します。
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 衆生堂です。いたる所に達磨さんで一杯です。
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 方丈の縁には、大小様々な達磨さんが並べられています。
 また、ご覧のように、方丈の南側には「十牛の庭」と命名された美しい庭があります。
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 方丈の縁に、屏風が並べられていました。
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 奉納された大きな達磨さんが、愛嬌のある睨みをきかしていました。
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北野天満宮の節分祭・追儺式
 
 北野天満宮は、天暦元年(1947)京都西北「乾の隅」、北野の地に皇城鎮護の願いを込め建立されて以来、災難除・厄除の社、また福の神が宿る社として、人々の篤い畏敬を集めてきました。
 節分祭(立春前日)には古くより「北野の追儺式」が行われて招福、無病息災が祈られています。
 また京都では「四方詣り」と称して節分ゆかりの四社寺を参詣する習慣が続いており、当宮は、その四方詣りの最後を担う最も重要なお社として信仰されています。
 (下記福豆の裏面、ゆかりの説明書きを転載しました。)
 

 福豆の図柄が今年は三種類となりました
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 3日当日は午前10時から、本殿にて節分祭が行われました。

 節分祭の追儺式「鬼やらい」は神楽殿にて午後1時から行われ、まず、茂山千五郎社中の皆さんによる、摂社福部社の御祭神である福の神が鬼を払う「北野追儺狂言」が奉納され、 その後、上七軒歌舞会による、春に因んだ日本舞踊が奉納されて、奉納された皆さんによる豆まきが執り行われました。
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 鬼の登場です。
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 福の神に追われて、鬼が逃げて来ました、逃げ込む場所は「乾の隅」西北の隅となっています。
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 賑やかな掛声と、笑いの渦の内に鬼は退散しました。
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 最後に豆まきが行われました。

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  茂山社中の皆さんや、上七軒の舞子さん芸者さん達による豆まきです。
 福を授かろうと、凄い熱気の内に無事終わりました。
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 千本釈迦堂

 おかめ福節分祭が午後3時から始まりました。
 まず、番匠保存会による木遣音頭奉納により始まります。続いて住職をはじめとして、茂山七五三社中皆さんが、鬼やおかめの姿で本堂からおかめ像まで法螺貝の音ともに行列し、おかめ像の前で、おかめ法要が行われました。
 終わると、本堂にて厄除け祈願法要が営まれます。
 その後、伝統古式に則り、鬼追いの儀の奉納があり、最後に関係者一同による豆まきが行われて終わります。



 境内に掲示されていたポスターです。
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 当日の門前から参道です。
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 本堂前には、既に多くの参詣者が集まっていました。
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 おかめ像です。普段と違って、節分当日は場所柄、西陣織で着飾って鎮座しています。
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 節分祭に先立って、上七軒のお茶屋さんによる、日本舞踊が奉納されました。
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 茂山七五三社中による、鬼追いの儀の奉納です。
 鬼が打出の小鎚を振りまわし、暴れまわるのを、おかめが面白い仕草で鬼を降参させるという筋書きです。
 笑いとどよめきのうちに終了です。
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 おかめの愛嬌あるお面としぐさです。
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 最後に、関係者一同による福豆の豆まきです。
 右端は、鬼役の茂山宗彦さんです。左端は、壬生寺住職さんです。
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