萩を訪ねて(3)「松陰神社付近」

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  萩城下町から東へ、自転車で20分、明治維新胎動の地といわれる、旧松本村へやってきました。まず松陰神社へお参りします。

 

  「松陰神社」の大鳥居です。

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  松陰の「別れの書簡の碑」です。安政の大獄により捕らえられた松陰は、安政6年(1859年)10月20日、郷里の両親に宛てた別れの書簡「永訣の書」の中で詠まれたものです。享年30歳(親思う こころにまさる 親ごころ きょうの音づれ 何ときくらん)松陰の自筆を模写したものです。

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  「松下村塾」(国指定史跡)です。吉田松陰が身分や階級にとらわれずに教育を行い、わずかの期間に久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文など維新の原動力となった逸材を育てた場所です。

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   「講義室」です。

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  「松下村塾」に隣接する、松陰の実家の「杉百合之助宅」です。はじめ親族の瀬能家から借りたものでかなり広い屋敷です。

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  「玄関」です。

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  「吉田松陰幽囚丿旧宅」(国指定史跡)です。野山獄から実家に帰され、謹慎を命じられた松陰は、幽囚室で孟子などを講じ、次第に若者が参加するようになり、一年半ばかり続けられ、松下村塾につながっていくようになります。

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  「幽囚室」です。謹慎中は三畳半一室のこの部屋で過したといわれています。

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  「松陰神社」二の鳥居です。吉田松陰を祭神とする神社で、明治23年(1890)に、松下村塾の西側に祠を建てたのが始まりです。その後、萩城内にあった宮崎八幡宮(毛利家の鎮守)の神殿が移築されました。現在の拝殿は昭和30年に完成しました。

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  「御本殿」です。

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  「松陰神社」に隣接する「松門神社」です。昭和30年、松陰神社の新社殿がが竣功し、旧社殿を改修して現在地に移し、塾生、門下生を合祀してお祀りしています。

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  茶室「花月楼」(県指定有形文化財)です。萩七代藩主、毛利重就が安永5年(1776年)に三田尻の別邸内に建てたものです。昭和34年に現在地に移転されたものです。

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   松陰神社の鳥居前にある、「松浦松洞誕生地」です。松洞は幼い頃から絵が得意で京都で学び、その後、松下村塾に入塾しました、松陰が江戸に送られる直前に肖像画を画きました。その肖像画は松陰神社に保存されています。文久2年に自決しました。

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  「伊藤博文旧宅」です。博文は天保12年(1841)山口県光市に生まれ、9歳の時に萩に移り、この家に住むようになりました。安政4年松下村塾に入塾し、その後、英国に留学、明治憲法制定に携わり、初代内閣総理大臣になりました。隣接して別邸が移築されています。

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   「全景」です。

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   室内の一部です。

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  宅地の一隅に「伊藤博文の銅像」が建立されています。

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  「玉木文之進旧宅」です。文之進は松陰の父、杉百合之助の末弟で文化7年(1810)に生まれました。後に玉木家を継ぎました。天保13年(1842年)近くの子供を集めて塾を開き、松下村塾と名付けました。故にこの地が松下村塾の発祥の地です。

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  「玉木文之進旧宅」です。

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  「吉田松陰誕生地」です。団子岩と呼ばれる風光明媚な所で、天保元年(1830)に萩藩士 杉百合之助の二男として生まれました。誕生地の碑が建っています。

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  住居の地割りがしてあります。

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   高台にあり、萩市内が一望できる場所です。

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  敷地の側に、吉田松陰、金子重輔の銅像が建っています。

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   誕生地の横に松陰、晋作の墓所があります。

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   松陰の門下の逸材、「高杉晋作の墓」です。慶応3年(1867年)に没しました。

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  「吉田松陰のお墓」です。この一帯は吉田家を始め、杉家、玉木家、門下生などの墓所となっています。

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  「東光寺」です。東光寺は黄檗宗の寺院で、元禄4年(1691年)三代藩主毛利吉就が建立しました。墓所には毛利三代藩主から十一代までの奇数藩主夫妻が埋葬されています。また中国風の雄大華麗な伽藍が建ち並び、京都の万福寺を思はせます。

  「総門」(重要文化財)です。元禄6年(1693年)建立されました。

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  「三門」(重要文化財)です。文化9年(1812年)毛利斎照により建立されました。桁行11.4m梁間6.5mの2階二重門です。2階には毘盧遮那仏・十八羅漢が安置されています。堂々とした風格に圧倒される思いがします。

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  「三門」を潜ると長い参道が続きます。

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  「鐘楼」(重要文化財)です。元禄7年(1694年)4代藩主毛利吉広によって寄進されました。

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  「大雄宝殿」本堂(重要文化財)です。元禄11年(1698年)建立です。ご本尊は釈迦如来、脇士迦葉尊者、阿難尊者の三尊仏をお祀りしています。

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  「墓所」への道です。

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   「御廟」といわれるこの墓所には、東光寺開基の三代藩主夫妻などが正面に、右手、左手には一族関係者のお墓があります。また家臣が寄進した約500基の石燈篭が整然と並び圧倒されます。辺りは鬱蒼とした樹林に囲まれて、荘厳な雰囲気が漂よっています。

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  「東光寺」を最後に萩観光を終えて、東光寺からの急坂を自転車を走らせて萩橋へ戻ってきました。宿のそばの松本川を、夕焼けを迎える橋上から「しら魚漁」を少し覗いて宿に帰りました。いよいよ明日の最終日は津和野へと向かいます。

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このページは、Kが2015年3月 4日 20:09に書いたブログ記事です。

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