お天気も良いのでサイクリングツアーも快適です。各所に駐輪場も設けられているので、適当に歩いて見物に切替えられるのがグッドです。
「外堀」に沿って南北に通る「外堀通」です。
「外堀通」より、西へ萩城・堀内地区に向かいます。正面に田中大将の銅像が建っています。
「田中大将像」です。
この辺り大きな公園になっていて、駐車場もあり、「萩博物館」もあります。
「萩博物館」です。萩というテーマーで、自然、歴史、民俗、産業、美術工芸などの資料を収集保管し、展示しています。前庭の夏みかんです。
「博物館」の全体像です。
「井上剣花坊」の「詩碑」です。剣花坊は明治3年1870年に生まれ、明治36年上京し、日本新聞社に入社し、革新的川柳を発表し続け、正岡子規に対し、新川柳の井上剣花坊と呼ばれました。(憧れを画けと空はただ蒼し)
同じく「井上剣花坊」の詩碑です。
「堀内地区」は指月山に城を築き、町割を行い、萩城三の丸あたりに藩の諸役所と大身の武家屋敷の地割りが行われ、堀内地区として、歴史的な姿を今も伝えています。
長く続く土塀や白壁が萩の特色を良く見せています。
「旧毛利家別邸表門」です。桁行10.9m梁間3.8m棟髙5.2mという規模の雄大さで、材質もケヤキが使用されています。
「天樹院」です。萩藩主毛利輝元の墓所で、毛利家の天樹院墓所となっています。唐門と長い敷石の参道の奥に、夫人及び殉死者長井次郎左衛門の墓石3基があります。
玉垣、鳥居、石燈篭、と静かな環境にあります。
「萩城跡」に向かいます。城跡の入口には、「毛利輝元の像」が建っています。輝元は豊臣政権下では五大老の一人として権勢を振るいましたが、総大将として臨んだ関ヶ原の戦いで敗れ、長門、周防二国に移封され、その後、慶長9年(1604)居城を萩に築城し、萩藩経営の安定に腐心しました。
「萩城」は、標高143mの指月山の麓に本丸が築かれ、指月城とも呼ばれています。平城の部分と、山頂の山城の部分を合わせた平山城です。庭園や石垣、堀の一部が往時の姿をとどめています。
「指月公園」となっています。奥は「志都岐山神社」です。
「天守閣跡」です。
「天守閣跡」から見る内堀です。
なだらかな姿を見せる「指月山」です。
掘割の「指月橋畔」の「萩八景遊覧船乗場」です。遊覧船に乗船してみました。
左右の「堀内」の「伝統的建造物保存地区」を船から眺めながら「橋本川」に向かいます。
川幅の広い「橋本川」は水深が浅く、船頭さんの巧みな棹裁きで屋形船は進みます。
「白壁」が300mも続く「旧田中邸」が見えます。白壁のそばが遊歩道になっています。
この先は「阿武川」と合流して「日本海」に注ぎます。
「掘割」と「夏みかん」の風景です。
Uターンして「指月山」と「萩城跡」を日本海から眺めています。
「日本海」です。乗船場に戻り、堀内地区をさらに巡ります。
「旧福原家萩屋敷門」です。この門は、萩藩、永代家老福原家の上屋敷の表門です。切妻造り、本瓦葺きの三間三尺の出入口を持つ腕木門で、両袖に潜り戸がつく、上級武家屋敷にふさわしい風格と規模があります。
「土塀」に「夏みかん」と萩にふさわしい風景です。
「堀内地区」の武家屋敷の連なる町並みです。
「北の総門」です。北の総門は、中の総門、平安古の総門とともに、城下から三の丸に入る城門として設置されていました。平成16年に復元されたものです。
堀端にある樹齢300年の「イヌマキ」の大木です。
「旧明倫館跡」です。萩城、三の丸の南側に享保3年に創建された、萩藩校明倫館の跡地です。全敷地は940坪あったと言われ、嘉永2年(1849年)萩城下の江向の地に移るまで、130年にわたって、藩政を担う藩士育成の場となっていました。
「旧児玉家長屋」です。萩城、三の丸の平安古総門に隣接していた児玉家は大身武士で、この長屋は、屋敷の西側道路に沿って建てられていたもので、木造平屋建、白壁と腰はなまこ壁となっています、よく旧態を保っています。
裏に回って見たところです。
「春日神社」です。高杉晋作の畏敬する氏神様で、百日参りや、7歳の誕生日の著袴式もこの神社で行ったと言われています。
「本殿」です。
この後、自転車を飛ばして、御幸通を一路東へ、松陰神社へと向かいました。
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