八瀬の里は、南北朝以来、朝廷との深い繋がりを保ち、年貢や公事課役を免除されるなどされてきました。宝永年間、比叡山山門との山林境界論争勃発の際、宝永7年(1710年)時の老中、秋元但馬守喬知が八瀬村の利権(租税の免除)を認め、改めて赦免の地が公認されました。その採決の報恩と感謝の念を忘れることなく、その御霊を八瀬八幡宮の本殿横にお祀りし、毎年10月の秋元社の例祭で夜に芸能「赦免地踊」を奉納してきました。
パンフレットです。
祭りの「門口」(村の中心地)区役所八瀬出張所前です。三々五々人々が集まってきます。
「赦免地踊」の中心が、精巧な透かし彫りで装飾された「切り子灯籠」であることから、別名「灯籠まつり」とも言われています。美しく装飾された灯籠踊は室町時代の風流踊りの面影を残すものといわれています。
八瀬4町の「宿元」4軒に、各々「切り子灯籠」2基が座敷に飾られています。村人や多くの関係者が集まり、お披露目されています。宿元のご主人に招き入れられてお座敷に上がらせていただき、つぶさに、精巧で緻密な「切り子灯籠」を間近に見せていただきました。
お座敷には床の間に「秋元大明神」が祀られ、その前に切り子灯籠が飾られています。
「切り子灯籠」十二面の絵は、吉祥文様や花鳥、武者絵などです。三枚重ねの赤和紙に、透かし彫りで数ヶ月かけて仕上げられ、その後、白の地紙に貼付けます。
午後6時を過ぎると、「灯籠着」と呼ばれる、昔女官から下賜されたという、御所染の着物で女装した男子(13歳から14歳)が各宿元に2名づつ集まり身支度を行います。
「宿元」の玄関で切り子灯籠を被り、準備万端整い、門口(出発地)に集結します。
夜7時、灯籠を頭に戴いた「灯籠着」8人が門口に集まり、灯籠8基、踊り子、音頭取りなどが揃っていることを「十人頭」の長が確認する儀式が始まります。「十人頭」は踊りの指導及び監督をする人々で、今年30歳になる青年が祭り一切を取り仕切ります。十人頭の人々です。
儀式が終わり、いよいよ秋元神社に向って「提灯持ち」を先頭に行列が進みます。
「灯籠着」の少年です。灯籠着には左右に二人、今年20歳になる男子が灯籠を支えて補助し、世話をしながら行列に同道します。
8人の灯籠着がゆっくりと行列に加わり進んでいきます。
「十人頭」に続いて「踊り子」と「灯籠着」の行列が続きます。「踊り子」は八瀬小学校の女子児童10名が友禅の着物に赦免地踊と染抜いた赤い提灯を手に持ち続いていきます。
「天満宮社」の鳥居をくぐり、これより漆黒の闇の中を進んでいきます。
「踊り子」に続いて「灯籠着」の列も鳥居をくぐってきます。
田畑の参道を進み、石段下より暗闇の中、フラッシュ撮影の禁止の号令がかかり、「踊り子」たちの持つ赤い提灯と「灯籠着」のかぶる灯籠の蝋燭の明りのみとなり、ゆらゆら揺れて、幻想的な夢幻の世界が広がっていきます。静寂の中、太鼓のトントントーンと打つ音が辺りに響き、「音頭取り」衆が静かに哀調を帯びた「道歌」を歌いながら一段一段と石段を上っていきます。
「灯籠着」も一段一段と上ってきます。鞍馬の火祭りが動の世界なら、こちらは静の夜祭りとして深く印象に残る場面でしょう。
「屋形」に着くと、「灯籠着」はゆっくりと音頭に合わせてその周りをまわります。
その後、「舞台」では、「狂言」や「踊り子」たちによる「汐汲み踊り」などが奉納されます。
宿元のご主人によれば、今夜の祭りが終われば、また一年かけて、来年の祭りの準備に掛かるとおっしゃっていました。時代の変化の激しい中で、伝統の仕来りを守り、後継者を育て引継いでいくということは、郷土愛と伝統の祭りを守っていくという強い情熱がなければ出来ることではないとつくづく感じ、頭の下る思いでいっぱいでした。どうかこの素晴らしい夜祭りをいつまでも守り育てて欲しいと願わずにはいられません。