2014年10月アーカイブ

八瀬の里「赦免地踊」

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 八瀬の里は、南北朝以来、朝廷との深い繋がりを保ち、年貢や公事課役を免除されるなどされてきました。宝永年間、比叡山山門との山林境界論争勃発の際、宝永7年(1710年)時の老中、秋元但馬守喬知が八瀬村の利権(租税の免除)を認め、改めて赦免の地が公認されました。その採決の報恩と感謝の念を忘れることなく、その御霊を八瀬八幡宮の本殿横にお祀りし、毎年10月の秋元社の例祭で夜に芸能「赦免地踊」を奉納してきました。

 

 パンフレットです。

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 祭りの「門口」(村の中心地)区役所八瀬出張所前です。三々五々人々が集まってきます。

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 「赦免地踊」の中心が、精巧な透かし彫りで装飾された「切り子灯籠」であることから、別名「灯籠まつり」とも言われています。美しく装飾された灯籠踊は室町時代の風流踊りの面影を残すものといわれています。

 八瀬4町の「宿元」4軒に、各々「切り子灯籠」2基が座敷に飾られています。村人や多くの関係者が集まり、お披露目されています。宿元のご主人に招き入れられてお座敷に上がらせていただき、つぶさに、精巧で緻密な「切り子灯籠」を間近に見せていただきました。

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  お座敷には床の間に「秋元大明神」が祀られ、その前に切り子灯籠が飾られています。

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 「切り子灯籠」十二面の絵は、吉祥文様や花鳥、武者絵などです。三枚重ねの赤和紙に、透かし彫りで数ヶ月かけて仕上げられ、その後、白の地紙に貼付けます。

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 午後6時を過ぎると、「灯籠着」と呼ばれる、昔女官から下賜されたという、御所染の着物で女装した男子(13歳から14歳)が各宿元に2名づつ集まり身支度を行います。

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 「宿元」の玄関で切り子灯籠を被り、準備万端整い、門口(出発地)に集結します。

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 夜7時、灯籠を頭に戴いた「灯籠着」8人が門口に集まり、灯籠8基、踊り子、音頭取りなどが揃っていることを「十人頭」の長が確認する儀式が始まります。「十人頭」は踊りの指導及び監督をする人々で、今年30歳になる青年が祭り一切を取り仕切ります。十人頭の人々です。

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 儀式が終わり、いよいよ秋元神社に向って「提灯持ち」を先頭に行列が進みます。

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 「灯籠着」の少年です。灯籠着には左右に二人、今年20歳になる男子が灯籠を支えて補助し、世話をしながら行列に同道します。

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 8人の灯籠着がゆっくりと行列に加わり進んでいきます。

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 「十人頭」に続いて「踊り子」と「灯籠着」の行列が続きます。「踊り子」は八瀬小学校の女子児童10名が友禅の着物に赦免地踊と染抜いた赤い提灯を手に持ち続いていきます。

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 「天満宮社」の鳥居をくぐり、これより漆黒の闇の中を進んでいきます。

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 「踊り子」に続いて「灯籠着」の列も鳥居をくぐってきます。

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 田畑の参道を進み、石段下より暗闇の中、フラッシュ撮影の禁止の号令がかかり、「踊り子」たちの持つ赤い提灯と「灯籠着」のかぶる灯籠の蝋燭の明りのみとなり、ゆらゆら揺れて、幻想的な夢幻の世界が広がっていきます。静寂の中、太鼓のトントントーンと打つ音が辺りに響き、「音頭取り」衆が静かに哀調を帯びた「道歌」を歌いながら一段一段と石段を上っていきます。

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 「灯籠着」も一段一段と上ってきます。鞍馬の火祭りが動の世界なら、こちらは静の夜祭りとして深く印象に残る場面でしょう。

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 「屋形」に着くと、「灯籠着」はゆっくりと音頭に合わせてその周りをまわります。

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 その後、「舞台」では、「狂言」や「踊り子」たちによる「汐汲み踊り」などが奉納されます。

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 宿元のご主人によれば、今夜の祭りが終われば、また一年かけて、来年の祭りの準備に掛かるとおっしゃっていました。時代の変化の激しい中で、伝統の仕来りを守り、後継者を育て引継いでいくということは、郷土愛と伝統の祭りを守っていくという強い情熱がなければ出来ることではないとつくづく感じ、頭の下る思いでいっぱいでした。どうかこの素晴らしい夜祭りをいつまでも守り育てて欲しいと願わずにはいられません。

 

 

 比叡山の麓の山間部に広がる八瀬の里、昭和24年(1949年)に京都市左京区に編入されました。若狭街道沿いに集落があり、鴨川の支流、高野川が流れる風光明媚なところです。宮中行事に奉仕する八瀬童子の里でもあり、10月の夜に行われる赦免地踊りは、郷土芸能として広く知られています。この赦免地踊りを見学するために、八瀬の里を訪れました。

 

 左京区役所八瀬出張所がある中心地です。

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 高野川沿いにある、昔ながらのかま風呂温泉の風景です。

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 家々はは田畑の中に寄り添うように建っています。

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 美しい高野川の清流です。

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 八瀬の人々の氏神様をお祀りする八瀬天満宮社です。ご祭神は菅原道真です。また壬申の乱の際、この地の「かまぶろ」で、矢傷を癒した天武天皇以来、江戸時代まで矢背天神宮と呼ばれていました。この天満宮には、九つの摂社が祀られており、天満宮本殿の南側に秋元神社があります。

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 石段を上がり、鳥居をくぐると、広い参道が田畑の中に長く続いています。

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 奥まったところに境内があります。

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 長い石段が続いています。辺りは鬱蒼として静かな佇まいです。

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 苔むした「狛犬」が迎えてくれます。

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 「天満宮本殿」です。

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 「本殿」の南側にある「秋元神社」です。幕府老中、秋元但馬守をお祀りしています。

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 「社務所」です。

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 「摂社」です。

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 「赦免地踊」の舞台です。前の広場では、灯籠着による「灯籠廻し」などが行われます。

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 境内には杉の大木が多くあります、「区民の木」と名づけられた杉の大木です。

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 「弁慶の背比べ石」です。弁慶が比叡山より運んで来たと言われています。高さは6尺3寸2分(1.92m)あります。

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 「矢負地蔵尊」です。天満宮社の大鳥居のそばにひっそりとあります。

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 多くのお地蔵さんが祀られています。

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 「豊国神社」(とよくにじんじゃ)は通称を「ほうこくさん」と親しく呼ばれています。豊臣秀吉没後、東山阿弥陀ケ峯に埋葬され、その麓に壮大な大仏の鎮守社として祀られていましたが、大阪夏の陣後、徳川家康によって取壊され放置されていました。その後、明治天皇の勅により、明治13年(1880年)方広寺大仏殿跡地に再建されました。他地にある豊国神社と同じく豊臣秀吉を祀っています。

 

 「豊国神社」の正面「大鳥居」です。

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 石段を上り、鳥居をくぐると、石畳の参道が続きます。

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 「手水舎」です。

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 「唐門」(国宝)豪壮絢爛な門構えです。豊国神社再建時に金地院から移築されたといわれていますが、もとは伏見城にあったともいわれています。総けやき造りで、極彩色の彫刻と金箔で飾られていたそうですが、今もその面影を彷彿とさせるものがあります。

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  見上げると、いかにも秀吉好みと想像できます。

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 左右の扉には、鯉の滝登りの彫刻があります。

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 唐門から見る「拝殿」です。

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 拝殿とその奥に「本殿」があります。

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 「本殿」です。

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 境内にある「稲荷社」です。

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 「方広寺大仏殿」の遺構を伝える、巨大な石を組合せた石垣が、往時の壮大な大仏殿を偲ばせます。(国の史跡として認定されています。)

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 「豊国神社」の北側に「方広寺」(ほうこうじ)があります。豊臣秀吉が東大寺に倣って大仏を安置するために天正14年(1586年)から10年余も掛けて造られた巨大な寺院でしたが、慶長大地震によってなくなり、その後、秀頼により再建されますが、焼失、再建を重ねて、現在の姿を留めています。

 「大黒天堂」です。

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 「本堂」です。明治11年(1878年)に再建されたものです。

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 「鐘楼」です。豊臣秀吉が、天正14年(1586年)に創建したものです。


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 「梵鐘」です。三条釜座、鋳物師名護屋によって1612年制作されました。この釣鐘は、奈良の東大寺、知恩院、そして方広寺と日本三釣鐘として、重要文化財に指定されています。大きさは高さ4.2m、外形2.8m、重さは82.7トンです。

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 「国家安康の鐘」「方広寺鐘銘事件」として歴史的にあまりにも有名な鐘です。梵鐘の銘文に「国家安康・君臣豊楽」と書かれていたのが家康の怒りに触れ、その後の豊臣家滅亡の端緒をもたらしたものです。(上部の白く塗られた2ヶ所の部分にその文字があります。)

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 「豊国神社」の正面鳥居を西へわずかに行ったところ南側にに「耳塚」があります。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、大陸支配を目論んだ、文禄、慶長の役の戦による朝鮮、明の戦死者の耳や鼻を埋めたもので、その魂を弔うための塚で、最初は鼻塚と呼ばれていたといわれています。

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 「五輪石塔」と「耳塚修営碑」です。

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 京都国立博物館が、鳥獣戯画の特別展を開催。新しく建設された知新館を併せて見学したいと訪れましたが、チケットを買って中に入って吃驚、多くの人の行列と、時間待ちに諦めて、久し振に三十三間堂にお参りしてきました。

 三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は仏堂で、正式には蓮華王院(れんげおういん)といいます。長寛2年(1164年)鳥辺山麓の一画に平清盛が寄進し、建立しましたが80年後に焼失、文永3年(1266年)に再建されました。その後、数度の大修理により、700年余間保存されています。三十三間堂は近くの天台宗妙法院の寺域外の仏堂です。ご本尊は千手観音です。

 

 案内パンフレットです。

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  「北門」です。お寺への正式な出入口と思はれますが、普段は北の駐車場より入ります。

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 北門を境内から見たところです。

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  「東大門」です。この門の直線上に本堂の正面入口があります。

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 廻廊塀が南大門まで続いています。正面奥が南大門(重要文化財)です。

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  塩小路通りにある、「南大門」です。南大門は三間一戸の八脚門で、豊臣秀吉が文禄4年(1595)に造立した大仏殿方広寺の南門として築いたものと伝えています。

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  見上げると堂々とした、門構えを見せています。

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 「南大門」から北方を見ると、「廻廊塀」と「東大門」が続いています。

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  「東大門」を内側から見たところです。

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  三十三間堂、「本堂」正面です。

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 「本堂」は、入母屋造り、本瓦葺き総檜造りで、大きさは、約120mで、正面の柱間33画あるところから、三十三間堂と呼ばれています。本堂には中央に巨像(中尊)が左右に各500体の「十一面千手千眼観世音」が祀られています。また、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」のもとになったといわれる、風神と雷神の像は、さすがに力強く迫力があります。

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 西南から見た「本堂」全景。

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 南西から見た「本堂」と、「通し矢」の射場の「西庭」です。毎年正月成人の日に行われる弓道大会は、全国から、約2000人が参加して終日賑わいをみせます。この通し矢は、江戸期尾張・紀州両藩による通し矢「天下一」の争奪戦が評判となり、以来続いているものです。

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 「本堂」の西側です。

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 軒の垂木に、通し矢のはずれ矢が、淋しげに突き刺さっています。

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 「西門」です。

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  「東大門」の左右に「池泉」が設けられています。北の池泉です。

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 「手水舎」(夜泣湶)です。長寛3年(1165年)一人の僧が、夢のお告げにより発見したという霊泉です。いつの頃からか、お地蔵さんのよだれ掛けを奉納祈願して、子供の枕の下に敷くと、夜泣きが治るという言い伝えが起こり、それは、手水の水の流れる音が夜泣きに似ていることからそのように信じられるようになり、夜泣き封じの功徳があると、今も多くのお参りがあります。

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 「鐘楼」です。

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 「法然塔」(名号石)です。元久元年(1204年)土御門天皇が、この場所で後白河法皇の13回忌を行った際、法然上人が音曲に秀でた僧を伴って「六時礼賛」という法要を施しました。この碑は、その遺跡として「法然上人霊場」となり、お参りされる方が多いということです。

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 「写経奉納塔」です。

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 「稲荷社」です。

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 「太閤塀」(重要文化財)です。天正14年、豊臣秀吉築造による築地塀(太閤塀)です。碑が立っています。

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 塩小路通りに面して、「太閤塀」が続いています。高さ5.m長さ92mの堂々たる築地塀で、瓦に太閤桐の文様を用いた事から太閤塀と言われます。

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 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)は、真言宗智山派の寺院で、山号は普陀落山といいます。空也上人天暦5年(951年)に創建された西国第17番札所です。平家一門との関わりが深く、源平両氏の興亡などにより、伽藍の焼失など幾多の変遷を経て、修復され現在に至っています。
 
 
パンフレットです。

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 道路に面した、門を通して本堂を見ています。

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 本堂正面に掲げられた「扁額」です。六波羅蜜とは、仏教で悟りを開くための六つの修業で、布施(見返りを求めない応分の施し)自戒(時に応じて自らを戒める)忍辱(如何なる辱めを受けても堪え忍ぶこと)精進(日々誠心誠意尽くすこと、不断の努力)禅定(冷静に第三者の立場で自分自身をみつめること)智慧(怒りや愚痴によって大切な智慧を失わない)をいいます。

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 「本堂」(重要文化財)です。南北朝時代(貞治2年)の修営です。昭和44年(1969年)開創1.000年を記念して解体修理を行い、丹の色も鮮やかに、絢爛と当時の姿を再現しています。ご本尊の秘仏である、十一面観音立像(国宝)がお祀りされています。

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 拝観受付け横の、宝物館の案内です。宝物館には、度重なる火災を免れた平安、鎌倉期の木像彫刻(重要文化財)が数多く安置されています。

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 本堂奥にある「銭洗い弁財天」です。ここで、手持ちのお金を清めていただくと、金運を授かるといわれています。

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 入口入ったところにある「六波羅弁財天」護摩堂です。「みやこの七福神」の一つになっています。

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 秘仏である「十一面観音像」を模した像と、本堂です。

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 本堂横には、大きなお地蔵様とその横に寄り添うように、小さなお地蔵さんが沢山お祀りされています。このお地蔵様は、本堂解体修理の歳に発掘されたときのものです。

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 境内にある「塚」です。左は平清盛を祀っています。右は阿古屋の塚です。どちらも鎌倉時代のもだそうです。

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 曹洞宗 「道元禅師御説法の遺跡」です。永平寺を開山された、道元禅師は寛永元年(1243年)にこの六波羅蜜寺において「正法眼蔵」「古仏心」を明らかにされたのを顕彰するために建立されました。

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 宕陰(とういん)地区は、樒原(しきみがはら)越畑(こしはた)の集落を総称しています。京都市右京区の西北に位置して、南丹市に接するところにあり、愛宕山の西麓にあります。美しい棚田や、茅葺き民家もあり、「にほんの里100選」に選定されています。水尾と同じような山間の集落です。

 

 府道50号線を水尾から、まず樒原に向かいました。左右に北山杉が植栽されてる木立ちの曲がりくねった山間部を走っていきます。

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 「樒原」の地名を伝える「ようこそ鎧田の里樒原へ」の大樽に出会います。鎧田とは、棚田が鎧に似ているところからその名が付いたようです。

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 愛宕神社への参道を示す、立派な鳥居が建っています。愛宕神社への裏参道で、ここから登れます。

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 樒原の立派な古民家です。

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 「四所神社」です。樒原の氏神様です。愛宕神社の奥宮を勧請して、戦国時代の末期1552年に創建されました。

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  面白い形の「常夜灯」で、自然石を上手く組合せた出色の常夜灯です。裏に嘉永5年8月の銘が刻んであります。

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 「社殿」です。立派な狛犬が鎮座しています。

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 続いて「八坂神社」です。越畑集落の氏神様として、素戔嗚尊を祭神として鎌倉時代に創建されました。

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  長い石段の参道が続いています。

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 参道の奥にも鳥居が建っています。

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 立派な狛犬さんも、睨みをきかしています。

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 「社殿」です。

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  奉納の絵馬が飾られています。

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 まるで、向井潤吉画伯の絵を見るような、茅葺きの民家が心を和ませてくれます。

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 茅葺きと白壁がマッチして美しい風景です。

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  樒原の「棚田」です、

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  幾何学模様の美しい風景ですが、耕作者にとっては、大変な労力を掛けておられることを思うと頭が下ります。

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 このような模様は、机上でもなかなか描けないでしょう。

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 惚れ惚れするような地形です。

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 「越畑」に入ってきました。樒原と越畑は隣接しているので分かりにくいところでもあります。

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 昔懐かしい「火の見櫓」です。半鐘もぶら下がっています。まだ現役なのでしょう。

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 コスモスも咲き、のどかな風景です。どこかしこに、里山の風景が広がります。

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 「河原家住宅」(京都市登録有形文化財)です。河原家は、幕末には嵯峨大覚寺の御典医を務めていたといわれています。棟札により、主屋は明暦3年(1657年)に建築されたことがわかっています、年代が確定する民家としては、市内最古のものです。屋敷には、主屋の他に長屋門(元禄9年1696年建築)と土蔵2棟が残っています。

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 「長屋門」です。

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 樹齢200年以上の「イチョウの大木」です。

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 コスモスが咲く棚田です。

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 越畑のいろんな姿の「棚田」です。

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 京都にも市内だけでなく、郊外にもいろいろ見るべき素敵な風景が数多くあることを改めて実感した、水尾、樒原、越畑、巡りでした。

 

 

 

 

柚子の里「嵯峨水尾」

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 柚子の里として知られる、京都市右京区の「嵯峨水尾」(さがみずお)。愛宕山の南麓の静かな山里です。その山里の住民の方々が育てる「フジバカマ」が満開で、海を渡る蝶として知られる「アサギマダラ」が舞っていると新聞記事で知り、出掛けて来ました。

 朝早く、府道50号京都日吉美山線を水尾に向かいました。起点は奥嵯峨の平野屋横の愛宕神社の一の鳥居です。

 平野屋と、一の鳥居です。

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 嵯峨鳥居本から、六丁峠、落合、と続く道からJR嵯峨野線の保津峡鉄橋が見えます。

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 「落合」です。清瀧川と保津川の合流点です。時代劇に必ずといっていいほど登場するロケ場所です。

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 その落合の路傍にある、「芭蕉の句碑」です。(清滝や波に散り込青松葉)元禄7年

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 府道50号から見える、JR保津峡駅です。保津川の橋上の駅です。ここから山間を縫って、水尾への集落に向かいます。

 

 

 

 

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 「水尾」の集落は、山に囲まれている山間の狭い土地に民家が建ち並んでいます、府道沿いの民家です。裕福な村落で、民家の構えからもそれが窺えます。

 

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 道端の石垣に立ててある可愛らしい道標です。

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 水尾集落の府道沿いに、住民の方の熱意で育てられている「フジバカマ」、が満開です。一面淡い薄紅紫色に染まって見事な景色です。その上を「アサギマダラ」が乱舞していました。

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「フジバカマ」の拡大です。

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 フジバカマに集まる「アサギマダラ」の写真を何枚か撮りましたが、上手く写せませんでした。ピントが甘く、ボケているのが残念です。

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 京都市内方向です。

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 フジバカマの隣地に、コスモスが一面に咲き乱れていました。

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 水尾は「柚子栽培発祥の地」といわれ、花園天皇が、この水尾に柚子を植えたとされ、江戸時代にすでに産地として広く知られていました。水尾の「柚子風呂」と「鶏鍋」は有名で、愛宕神社への参拝の後、水尾へ下りて、それを楽しむという人が冬期には多いようです。

 「柚子畠」です。

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 このような柚子畠が散在しています。

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 「清和天皇社」です。集落の中にあり、水尾の里の氏神さんで、清和天皇を祭神としています。清和天皇(850年〜880年、平安時代前期)は30歳で出家し、仏道修業のため近畿各地をまわり、最後に水尾山寺に入り、この地を終焉の地と考えていましたが病気になり31歳で亡くなられました。

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 鳥居をくぐると階段状の参道が続いています。

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 「社殿」です

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 境内には、水尾の最初の氏神と伝えられる、4ヶ所の神を祀る「四所神社」が摂社として祀られています。

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 清和天皇の遺言により遺骨は水尾山上に埋葬され、「清和天皇水尾山陵」となっています。

 「清和天皇水尾山陵参道」の道標です。

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 水尾山の山道を15分程登っていきます。北山杉の参道です。

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 静かな山上に「陵墓」がありました。美しく掃き清められていました。

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この後、時間も早かったので、府道50号線を越畑方面に向かいました。

 

 

 

 

 

 

 

 私達京都市民に、恵みの生活用水を供給してくれる琵琶湖。日本で最大の面積と、貯水量を誇ります。その琵琶湖には三つの島があります、良く知られている竹生島、人々が生活を営む沖島、そして島全体がご神体といわれる多景島、それ以外には、岩礁の沖の白石があります。彦根まで来たこの機会にと、多景島に渡ってきました。

 

 びわ湖汽船の案内パンフレットです。

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 彦根城下のびわ湖岸にある彦根港です。

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 多景島に通う、彦根港からのオーミマリン号です。

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 新造船か船内は大変美しく快適です。

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 いざ出港です。が今日は風が強く、波も荒く、船窓に終始、波が打ちつけ、2階デッキは波を被って上がる事ができませんでした。

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 彦根港から西へ6キロ、約20分で多景島に到着します。多景島は、周囲約600メートルの無人島で、眺める方向により、さまざまな島影を見せることから「多景島」と呼ばれました。明暦元年(1655年)長浜・妙法寺僧慈雲院 日請上人が島内に日蓮宗「見塔寺」を開きました。島内全域が見塔寺の寺域になっています。尚、島をご神体として信仰した遺跡は、弥生、奈良、平安時代までさかのぼります。

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 オーミマリン号も桟橋に横付けされて、我々が島内を巡る間、停泊して、また彦根港まで帰港します。

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 桟橋から参道に向かうと、「観音様」がお出迎えです。

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 参道から沖島が見えます。

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 「本堂」です。

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 お釈迦様の「断食行像」をお祀りしています。

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 左端に伊吹山が見えます。

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 順路から、眼下に、停泊中のマリンシップが見えます。

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 「鐘楼堂」です。元政上人の釣鐘で、寛文3年の銘です。

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 若き日の「日蓮上人像」です。

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 「題目岩」のある、島の突端です。

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 題目岩への、細い順路が、アップダウンしながら続いています。

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 「題目岩」です。日靖上人が元禄5年に刻まれたと言われています。一文字にお米一俵入るといわれ、幅が4m、高さ約16mです。

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  国土地理院が設置した「4等三角点」です。測量の基本基準点です。

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 「石の宝塔」です。高さ約8m、万治4年建立です。

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 「誓いの御柱」です。明治政府の五箇条の御誓文の心を記念して刻み、大正13年に建立されました。高さ約23mああります。

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 彦根方面が眺められます。

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 彦根藩由縁の墓地群です。

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 「見晴らし岬」です。

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 彦根港に帰港する船室から見た題目岩です。巨石に南無妙法蓮華経と彫られています。

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 多景島は、全島花崗岩から成立っています。

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  桟橋から離れて彦根港に帰港します。

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 多景島に渡るには、彦根港から1日1便のみ運行されている、びわ湖汽船「オーミマリン」を利用します。彦根港には、JR彦根駅から、無料のシャトルバスが運行されています。

 

 

 

 

 

 

中山道「鳥居本宿」

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 江戸時代の五街道の一つの中山道。江戸日本橋から、上野、信濃、木曾、美濃、近江を経て京都の三条大橋まで、135里32丁(約534km)で69宿あり、草津宿で東海道と合流します。滋賀県の中山道宿は、草津宿まで9宿あり、この鳥居本宿は江戸より63宿 117里34町(約468km)京へ17里24町(約70km)の場所にあります。

今回、中山道、「鳥居本宿」を訪ねてきました。

 

 パンフレットです。

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 「鳥居本宿」へは、JR彦根駅から近江鉄道に乗換えて、鳥居本駅で下車します。彦根からの近江鉄道車両です。

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  無人駅の「鳥居本駅」です。

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 国道8号線沿いの鳥居本駅の「旧駅舎」です。大正時代に建てられたという駅舎が、その郷愁を感じさせながらも、現在は無人駅舎で淋しげに残されています。

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 国道8号線と並行する感じで中山道は伸びています。

 鳥居本駅から鳥居本宿に入ると「脇本陣跡」の碑が立っています。

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  鳥居本宿の南はずれ、中山道と彦根道(朝鮮人街道)の「分かれ道」です。朝鮮人街道とは、「朝鮮通信使」が通った道で、中山道から彦根の城下町への脇街道でした。

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 角に「道標」が残っています。「右、彦根道、左 中山道 京 いせ」と読めます。文政10年(1827年)に建てられました。

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 「専宗寺」です。山号は胴泉山、浄土真宗本願寺派のお寺で、ご本尊は阿弥陀如来です。佐和山城下にありましたが、寛永17年(1640年)に現在地に移ってきました。聖徳太子開祖と伝わっています。

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 「本堂」です。

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 「太子堂」です。

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 「鐘楼」です。

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 「鳥居本宿」は本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒を数える宿場で、今もその街道筋には、江戸時代の面影を伝える建物が軒を連ねて、当時の賑わいを彷彿とさせてくれます。

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  道中をお守りする、「長池地蔵」です。

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 「木楽亭」です。

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 文化庁の「登録有形文化財」のプレートが示されています。

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 漆喰塗の虫籠窓を備えた立派な建物が、道の両側に並んでいます。

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 十字路に立つ「常夜灯」です。凝った常夜灯に歴史の重みを感じます。

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 享保5年(1720年)馬場弥五郎が創業したことに始まる「鳥居本合羽」は、雨の多い木曽路に向かう多くの旅人が買求め、文化・文政年間には15軒の合羽所がありました。

 合羽所「松屋」さんです。「松屋松本宇之輔店」は昔そのままに、屋根の上に看板を掲げて現在に至っています。

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 合羽所、天保3年1832年創業の「木綿屋」です。

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 「赤玉神教丸有川家」です。鳥居本宿で合羽と共にその名を知られる、「赤玉神教丸」。万治元年(1658年)創業の赤玉神教丸本舗は、今も昔ながらの製法を伝えています。この建物は、宝暦年間(1751年〜1764年)に建設されました。

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 隣接するこの建物は、明治11年(1878年)明治天皇北陸巡行の際に増築され、休憩所となりました。

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 これより中山道は「擂鉢峠」へと向かいます。

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 有川家の近くの「上品寺」(じょうぼんじ)です。明暦2年(1656年)浄土真宗に改宗した上品寺は、元は天台宗のお寺で鐘楼に吊られている鐘は、7代了海(法海坊)が江戸市中を托鉢して作ったもので、周囲には吉原の遊女花里・花扇など、寄進者の名前が刻まれています。

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 「法海坊旧跡」の石碑が建っています。

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 これがその「鐘楼の鐘」です。

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 歴史的な遺産は、一度失うと二度と戻らないものです。個人の力では守り切れない、このような文化財と言うべきものを、公的な協力で次世代に是非受け継いでいきたいものです。

 

 

 

 

 

 

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