「豊国神社」と「方広寺 」

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 「豊国神社」(とよくにじんじゃ)は通称を「ほうこくさん」と親しく呼ばれています。豊臣秀吉没後、東山阿弥陀ケ峯に埋葬され、その麓に壮大な大仏の鎮守社として祀られていましたが、大阪夏の陣後、徳川家康によって取壊され放置されていました。その後、明治天皇の勅により、明治13年(1880年)方広寺大仏殿跡地に再建されました。他地にある豊国神社と同じく豊臣秀吉を祀っています。

 

 「豊国神社」の正面「大鳥居」です。

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 石段を上り、鳥居をくぐると、石畳の参道が続きます。

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 「手水舎」です。

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 「唐門」(国宝)豪壮絢爛な門構えです。豊国神社再建時に金地院から移築されたといわれていますが、もとは伏見城にあったともいわれています。総けやき造りで、極彩色の彫刻と金箔で飾られていたそうですが、今もその面影を彷彿とさせるものがあります。

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  見上げると、いかにも秀吉好みと想像できます。

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 左右の扉には、鯉の滝登りの彫刻があります。

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 唐門から見る「拝殿」です。

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 拝殿とその奥に「本殿」があります。

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 「本殿」です。

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 境内にある「稲荷社」です。

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 「方広寺大仏殿」の遺構を伝える、巨大な石を組合せた石垣が、往時の壮大な大仏殿を偲ばせます。(国の史跡として認定されています。)

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 「豊国神社」の北側に「方広寺」(ほうこうじ)があります。豊臣秀吉が東大寺に倣って大仏を安置するために天正14年(1586年)から10年余も掛けて造られた巨大な寺院でしたが、慶長大地震によってなくなり、その後、秀頼により再建されますが、焼失、再建を重ねて、現在の姿を留めています。

 「大黒天堂」です。

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 「本堂」です。明治11年(1878年)に再建されたものです。

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 「鐘楼」です。豊臣秀吉が、天正14年(1586年)に創建したものです。


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 「梵鐘」です。三条釜座、鋳物師名護屋によって1612年制作されました。この釣鐘は、奈良の東大寺、知恩院、そして方広寺と日本三釣鐘として、重要文化財に指定されています。大きさは高さ4.2m、外形2.8m、重さは82.7トンです。

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 「国家安康の鐘」「方広寺鐘銘事件」として歴史的にあまりにも有名な鐘です。梵鐘の銘文に「国家安康・君臣豊楽」と書かれていたのが家康の怒りに触れ、その後の豊臣家滅亡の端緒をもたらしたものです。(上部の白く塗られた2ヶ所の部分にその文字があります。)

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 「豊国神社」の正面鳥居を西へわずかに行ったところ南側にに「耳塚」があります。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、大陸支配を目論んだ、文禄、慶長の役の戦による朝鮮、明の戦死者の耳や鼻を埋めたもので、その魂を弔うための塚で、最初は鼻塚と呼ばれていたといわれています。

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 「五輪石塔」と「耳塚修営碑」です。

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このページは、Kが2014年10月23日 10:21に書いたブログ記事です。

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