寺町通りは京都の中心部分を北から南へほぼ一直線に通っている歴史ある町筋です。
一番北の端は出雲路橋通りから始まります。東西に横切る主な通りを北から列挙しますと、次に上立売通、今出川通、広小路通、荒神橋通、丸太町通、二条通、御池通、三条通、四条通、高辻通、松原通、万寿寺通(ここで河原町通と斜めに交叉し、横断して)五条通で寺町通りは終わります。
この寺町通りは、出雲路橋から今出川通までは寺町の名の通り、道の両側に多くの寺院が点在していますが、今回は歩いて楽しい、見て楽しい、今出川通から、三条通りまでをご紹介したいと思います。
まず寺町通りを今出川から下って行きます。(下るとは南方向に行く事、上がるとは北方向に行く事です。)丁度、御所の東側にあたります。しばらくは、民家や学校が続きますが、東側に本禅寺が見えてきます。
「本禅寺」(ほんぜんじ)山号(光了山)法華宗陣門流大本山 日蓮宗京都16本山の一つです。
室町時代に(1406年)に創建されましたが、何度かの焼失ののち、現在地に再建されています。
本禅寺の前から、寺町通りを南方向に見ています。
南隣は「清浄華院」(しょうじょうけいん)です。
浄土宗大本山の一つです。法然上人の第23番霊場です。
道を隔てた西側は広小路通りまで、梨木神社の境内です。
清浄華院の「御影堂」(大殿)です。
続いて「廬山寺」(ろざんじ)です。
紫式部、縁の寺院です。が、なんと言っても、節分会の行事「鬼法楽」が有名で、僕も子供の時は近くに住んでいたこともあり、毎年父に連れられて、赤鬼、青鬼の鬼おどりを寒い中、見学した楽しい思い出があります。
廬山寺の「大師堂」です
寺町通り広小路にやって来ました。北東角です。「京都府立医大の図書館」や「看護学院」があります。
かって、1981年(昭和56年)立命館大学が衣笠キャンパスに全学部移転するまで、ここに大学本館があり、その後府立医大が使用するようになりました。
「梨木神社」 一の鳥居です。広小路の北西角です。
京都御所 「清和院御門」です。 広小路通りの西端です。
京都迎賓館や大宮御所、仙洞御所への入口です。
京都御所の土塀が寺町通りと並行して南へ続き。寺町通りとの僅かな空間は駐車場となっています。
寺町通り広小路から、南方を見ています。奥に見えるのが鴨沂高校です。
右は、御所の土塀との空間が京都御苑の駐車場です。
寺町広小路を南に下り、荒神橋通りを越えた所、御所の東側に「京都府立鴨沂高校」があります。
1872年(明治5年)日本で最初の女学校として開校された「新英学級及び女紅場」が1900年(明治33年)、現在地に移転され、その後京都府立第一高等女学校となり、戦後学制改革によって現鴨沂高校となりました。
校門は明治33年移転時に移築されたものです。
昨年末から校舎老朽化による建替え問題が起こり、校舎の歴史的、文化的な価値から、保存運動が起きていますが現在、既に一部工事が進められています。
鴨沂高校の南隣、寺町御門の前に「田中伊三次邸」があります。
衆議院議員として、法務大臣など政界の要職につき、独特の弁舌には定評があり、選挙カーからの演説は未だに耳に残っております。1980年にお亡くなりになりました。
「寺町御門」です。
「京都市歴史資料館」 寺町御門から少し下った所にあります。
1982年(昭和57年)開館した新しい資料館です。
歴史の資料の収集、保存、調査を目的としていますが、最近は意欲的に特別展等を開催して、多くの歴史愛好者を集めています。
歴史資料館のすぐ下ったところに「新島旧邸」があります。
同志社の創立者、新島襄、八重がかつて生活をした住宅です。1878年に和洋折衷の建物として建築されました。京都市の指定有形文化財です。
続いて「新島記念館」です。
新島襄旧邸の南隣に隣接しています。チャペルやホールもあり瀟洒な建物です。
寺町通り丸太町に出てきました。京都御苑の東南角になります。
この石垣の側に昔は交番がありました。今は電話ボックスがひっそりと立っています。
この東側のちょっと上がった所に、文化会館という二番館の映画館がありましたが、現在はありません。
丸太町通りから、これから歩く、南方向を見ています。早朝で昼間の賑わいはありません。
この寺町通りには、明治から大正の終わりにかけて、電車が通っていて、寺町二条で左折して東進し、木屋町二条へと運行されていたそうです。
これから下っていく通りの左右には、老舗と言われるお店が数多く軒を連ねています。
この右手に彙文堂という、内藤湖南氏を始めとして多くの文人が愛した、中国書専門の有名な本屋さんがありましたが移転してしまいました。木彫りの看板が懐かしいです。
下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)です。
丸太町通りからすぐ下ったところにあります。元は、出雲路の上御霊神社の南にあったので下御霊神社と呼ばれます。天正18年(1950年)現在地に遷座しました。
僕の家の氏神様でした。五月のお祭りには露店での楽しい思い出が蘇ります。
本殿です。多くの友達とお百度参りをするのが楽しかったです。
南に下るとすぐ「革堂」(こうどう)です。正式には行願寺と言いますが、革堂で通っています。
西国三十三ヶ所、第十九番札所で、常にお参りの方が多く、バスが丸太町通りによく停まっています。
本堂です。
現在と違って、昔は記念の節目には写真館で記念写真を撮ってもらったものです。「小林祐史写場」と、名前を見るだけで歴史を感じさせてくれます。通りの東側にあります。
同じく通りの東側にある、創業、明治45年という「更科」。
表構えはすっかり変わりましたが、健在なのが嬉しいです。
パンの「進々堂」1913年(大正2年)創業の老舗です。通りの西側です。
創業者の続木斎氏はパリへ留学し、帰国後、日本初のフランスパンを製造し人気を博し、進々堂の名を世に知らしめました。
懐かしい商家の面影を今に伝えています、昔も、今も、「どんなお商売かな?」と思っています。
当家の前に囲碁「本因坊発祥の地」という京都市の駒札が建てられているので、何かのご縁があるのかも知れません。通りの東側にあります。
お茶の「一保堂」(いっぽどう)です。1717年(亨保年間)に創業の老舗です
この店構えは、今も変わらず、老舗としての風格を備えています。
通りの東側です。
紙の「柿本」です。1716年(亨保年間)の創業です。一保堂のすぐ南にあります。
建物は新しくなりましたが、入口にかかる暖簾の文字が歴史を感じさせます。
向い西側にある「藝林荘」です。古典籍を扱う古書店です。
古書店らしい佇まいを見せています。
同じく西側にある「古梅園」です。1714年(正徳4年)創業です。
硯、墨、筆、紙、等、書家にとって必要なものは、すべて揃うため、全国からお客さんが訪れると言われています。
建物の外観を見るだけでも、心が和みます。
また、この近くには「菊新」という、蒲鉾の美味しい老舗がありましたが、店主がお亡くなりになり、「店主が作ったこの味を出せないとお客さんに申訳ない」と閉店されました。残念な思いがします。
この寺町通りには、丸太町通りから三条通りにかけて、「寺町美術通り」と言われるほど、画廊、道具屋さん、そして古美術商が軒を連ねています。
古美術などに関心のある人にとっては、時間を忘れさせてくれるでしょう。
二条通りに近くなりました。西側に五色豆の「ふなはしや総本店」です。明治時代の創業、120年は経過すると言われています。
右隣に見えるのは、「三月書房」戦後の書店ですが、人文科学系の書籍の品揃えには定評があり、店主の哲学が書棚に現れていると思います。店主の哲学と言えば一乗寺にある楽しい本屋さん「けいぶん社」と良い勝負ではないでしょうか。
向い、東側には「村上開新堂」という洋菓子屋さんも忘れてはならないでしょう。
また、その南隣には、昔ながらの店構えの川越芋の焼芋屋さんがありました。常連さんも多く人気がありましたが、数年前、ご主人がお亡くなりになり、閉店となりました。
ご紹介はしていませんが、この辺りには、まだまだ戦前からの多くのお店が、時流におもねらず、お店を維持していられるのに敬服します。
寺町通りの二条にやって来ました。西南角に戦前は「鍵屋」という有名な洋菓子店がありました。重厚な感じの洋館でしたが、戦後は労働セツルメントの事務所となり。その後、取り壊されてガソリンスタンドに、そして現在はマンションになっています。
その左隣は「若林春和堂書店」です、今はビルに建替えられていますが、木造三階建ての立派な店構えで、江戸時代には若松屋茂助が木版による出版をしていたそうです。
寺町通り二条から東方向です、大正末まで電車がここで左折し、木屋町方面に運行していたそうで、この寺町二条の停車場で新京極の盛り場へ遊びに行く人々が乗降し,その賑わいは凄かったと聞いています。
「寺町通り」 市役所界隈に続きます。