2014年9月アーカイブ

佐和山山麓の社寺

 彦根の城下の外れ、佐和山山麓に彦根由縁の社寺が集まっています。清涼寺、龍潭寺、井伊神社、そして大洞弁財天です。あまり観光客も立寄らなく、人気のない静かな山裾にひっそりと佇んでいるという趣があります。

 

 1)清涼寺

 清涼寺です。曹洞宗の禅寺で、代々彦根藩主を務めた井伊家の菩提寺です。近江湖東二十七名刹霊場第3番札所、びわ湖百八霊場56番札所です。

 山門までの広い大らかな感じのする参道です。修業道場として名高く表には「参禅道場」の大きな石柱が建てられています。

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 「山門」です。

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 「本堂」です。

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 「参禅道場」です。

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 「客殿」です。豪華な造りに圧倒されます。唐破風の玄関屋根が見事です。

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 けやきの太い丸柱は見事なもので、一見の価値があります。

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 天井も折り上げの格天井で細工が美しく、彫り物も見事なものでした。

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 2)龍潭寺

 清涼寺に隣接する「龍潭寺」(りょうたんじ)です。臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は弘徳山、ご本尊は釈迦如来です。龍潭寺は天平5年(734年)行基により遠江国に開祖されましたが、慶長7年(1602年)より昊天禅師によって、遠江国から移され、諸堂が完成したのは(1617年)で15年の歳月を経ました。 元和3年、初代藩主井伊直政の建立による禅僧の研修道場があり、井伊氏の始祖藤原共保以来の井伊家の菩提寺で、井伊家と深い繋がりのあるお寺です。

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 「参道」です。

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 参道を進むと石段の向こうに「山門」が待っています。

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 辺りの緑に山門が映えます。紅葉の頃は素晴らしい眺めでしょう。

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 本堂へと続く広い庭が静かに招いてくれます。

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 途中には「仏足石」も据えられています。

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 藍渓和尚伝来の「七福神」です。

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 「大洞観音堂」です。ご本尊楊柳観世音菩薩が祀られています。

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 参道脇に「石田光成の銅像」が建てられています。

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 3)井伊神社

 井伊神社です。天保13年(1842年)彦根藩12代藩主井伊直亮が、井伊家の始祖井伊共保の750回忌にあたり、伊井谷(現静岡県)から井伊大明神を分霊して神像を造り、龍潭寺の参道脇に祀ったのがはじめとされています。また彦根藩初代藩主直政・2代藩主直孝も祀られています。現在は、風化による傷みが激しいため覆いをしており、中を拝観することは出来ません。(彦根観光協会資料より)

 「大鳥居」と参道です。

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 木々の生い茂った長い参道が続きます。

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 苔むした石段が歴史を感じさせてくれます。

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 新しく2013年に建立された簡素な「社殿」です。

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 弘化2年(1845年)に建立された社殿は傷みが激しく、覆いがされて、廻りは金網も張られて、立ち入ることはできません。金網の隙間から、正面を撮ったものです、極彩色の組物や彫物など豪華絢爛さを垣間見る事ができます。

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 「淡海の巨木・名木次世代継承事業に認定」されているしだれ桜です。太い幹と枝振りから、開花の時期は素晴らしい眺めと思はれます。右は囲われた旧社殿です。

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 辺り一面彼岸花が咲き乱れていました。

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 4)大洞弁財天 長寿院

 大洞弁財天、長寿院です。大洞山の中腹にある真言宗醍醐派の寺院です。第4代藩主井伊直興が、表鬼門に当たるところから、厄除と城を守る事から、日光東照宮を修造した大工を使って建てたもので、権現造りの優美な本堂は、彦根日光とも呼ばれます。正式に長寿院ですが、日本三大弁財天の一つ「弁財天坐像」(近江七福神)をお祀りしているところから、大洞弁財天と親しまれています。近江湖東二十七名刹霊場1番札所、びわ湖百八霊場54番札所です。

 東海道本線、線路脇の「子安地蔵尊」の祠の横から始まる参道の石段です。

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 「山門」です。

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  山門をくぐると、楼門が見えます。二天門といいます。一見の価値ある楼門です。

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 「毘沙門天坐像」。楼門に安置されています。

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 「堅牢地神坐像」。楼門に安置されています。

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 楼門の内側には「白狐」が左右に控えています。楼上には「大黒天像四千体」が安置されているそうです。

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 「宝蔵」です。校倉造りで宝物が所蔵されています。

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 弁財天をお祀りする、「弁財天堂」(重要文化財)です。元禄9年(1696年)に建立されています。

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 境内より見た楼門です。

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 「阿弥陀堂」です。阿弥陀如来(恵心作)と大日如来(増長作)釈迦如来(弘法作)が安置されています。

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 「阿弥陀堂です」。石段下から見上げたところです。

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 「経蔵」です。少し下った外れた場所にあります。

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 井伊神社横からの裏参道です。

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 城下町として発展してきた彦根の町。それは、井伊直勝が佐和山藩主時代に、彦根城築城のための大規模な土木工事によって、計画的に造られた街です。当初多くの淵や沼のある湿潤な土地を芹川の流れを付け替え、当時の尾末山を全山切り崩して低地に埋立て、町の地割りを行い現在の町の基礎を築いたそうです。

 レンタサイクル、「めぐりんこ」で巡ってきました。初めて乗った電動自転車、漕ぎ出しも軽くて快適なのにびっくり、楽しみながらめぐりんこしてきました。

 

 彦根市のパンフレットです。

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 JR彦根駅です。

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 その彦根駅前のロータリーに、井伊直政公の銅像が立っています。井伊氏第24代当主で彦根藩の初代藩主で、彦根市の発展の基礎を築いた人です。

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 「大師堂」です。弘法大師ゆかりの真言宗のお寺で、「駅前の弘法さん」として親しまれています。寺内には寝姿の寝弘法さんがおられます。

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 「寝弘法」さんをお祀りする本堂です。

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 境内には、「彦根一箇所七福神」と呼ばれる、七福神の石像が揃っています。

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 「滋賀県護国神社」です。明治9年に創建され、明治戊辰戦争から大東亜戦争に至る滋賀県出身の戦没英霊をお祀りしています。 (彦根城佐和口の側です。)

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 「拝殿」正面です。奥に本殿があります。

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 中堀沿いの滋賀県護国神社の塀沿いに進む「埋木舎」への道です。

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 「埋木舎」です。井伊直弼が楽々園を出て、青春時代を過した館です。(世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は)と直弼は和歌を詠み、自ら埋木舎と名付け文武両道に励んだ場所です。 (護国神社に隣接し中堀沿いです)

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 「旧池田屋敷長屋門」です。彦根藩中級武家屋敷の典型を示す長屋門で、指定文化財に指定されています。  (埋木舎の前の道を北にすぐの所にあります)

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、「中村商家保存館」です。真宗信仰に生きた商人の家です。寛永年間、彦根城が完成した同時代に建てられたもので、酒醸を商いし、延宝年間に西本願寺から下付された木像をお祀りしています。江戸期の建物の様式を残す貴重な建物です。(大師堂から北へすぐ、旭町3-23)

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 「石川千代松像」です。石川千代松は、明治から昭和の始めの動物学者で、東大教授です。琵琶湖に産する小鮎の研究で琵琶湖の小鮎を広く知らしめ、全国の河川に放流されるようになりました。(彦根旧港のほとりにあります、船町です)

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、「旧鈴木屋敷長屋門」です。鈴木家は中級武士として、彦根藩の藩校弘道館の事務長や書物奉行などの職務にあたっていました。文久2年(1862年)の建物ですが、現在は長屋門のみが残っています。

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 「旧西郷屋敷長屋門 付袖塀 堀及び高麗門」指定文化財です。内濠と中濠とに囲まれたこの付近一帯は上級武士の屋敷があったところです。これだけ大きな長屋門はほかに例がありません。 

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 「高麗門」です。

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 内堀沿いにある「大手門橋」です。

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 彦根城の南側にあたる、内堀沿いの道です。

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 城の南側、中堀沿いに建つ「スミス記念堂」です。昭和6年、彦根聖愛教会の牧師パーシー・アルメリン・スミス氏が両親を記念して建設した和風礼拝堂です。伝統的な寺社建築を基本としつつも、要所に十字架やキリスト教ゆかりの文様を取り入れた、和風教会建築として貴重な建物です。 (中堀沿いの本町にあります)

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 「礼拝堂」です。

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 「連着町の腹痛石」です。触るとお腹が痛くなると言い伝えられている石です。むかし彦根山の観音様にお参りする人が長い道中を終え、道中に背負ってきた連着(れんじゃく)をほどき、道端の石に腰を掛けて休みました、その名残の石です。持去られないように、触ると痛くなると言い伝えられ保存されてきました。(スミス記念堂近く、城町にあります)

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 「旧広田家(納屋七)住宅」です。この付近は江戸時代には下魚屋町といい、魚屋が建ち並んでいました。広田家は「納屋七」とい屋号で魚問屋を営んでいました。安永7年(1778年)の建築で、切妻造りで軒裏を漆喰で塗込め袖壁を付けた重厚な構えを見せています。

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 「義言地蔵」(よしときじぞう)です。この場所は長野主膳義言(井伊直弼の腹心として幕末に活躍した人物)が直弼亡き後、四十九町の牢屋前で斬首されました。その後、主膳の霊を鎮めるために、斬首跡地に地蔵尊が祀られたものです。(城町にあります)

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 「夢京橋キャッスルロード」です。彦根城の堀端、京橋から南へ白壁と紅殻に煤がけの黒格子と、町並みを揃えた飲食店や土産物屋など、新しい彦根のシンボルとして登場しています、落着いた風情は多くの観光客を集めていました。

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 その夢京橋キャッスルロードに「宗安寺」があります。初代藩主直政が上野国から移した浄土宗のお寺です。朱塗りの門から赤門寺と呼ばれる「山門」です。

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 「本堂」です。ご本尊は阿弥陀如来で、夏の陣の際に、大坂城から持ち出された淀君の念持仏です。

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 「地蔵堂」です。右に眼病平癒の木之本地蔵尊、左に地廻り地蔵尊が祀られています。

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 「木村重成公首塚」です。重成は大阪夏の陣の豊臣方の名将ですが、城外で、井伊直考の軍勢に敗れ、彦根藩士安藤長三郎に首を取られますが、長三郎により、この寺に手厚く葬られました。

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 「俳遊館」です。大正時代のレトロな建物を利用した俳遊館です。松尾芭蕉やその弟子など、俳句に由縁の人たちの句碑や種々の展示をおこなっています。

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 「千代神社」重要文化財です。御祭神は天宇受売命、猿田彦命で、井伊家の保護のもと、古くから芸能や芸事の神様として広く知られており、歌舞伎や能狂言役者、俳優さんらの畏敬を集めてきました。

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 拝殿と本殿です。拝殿は入母屋造千鳥破風軒唐破風付、間口3間奥行3間で、本殿は三間社流造、間口二間奥行二間三尺です。

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 境内には摂社として、笠木稲荷神社、秋葉山神社、天満宮が祀られています。

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 芹川のけやき並木です。(後三条町です)

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 「七曲がりの仏壇街」です。中山道から彦根城へ向かう彦根道は、芹川の近くで何度も曲がりくねっています、ここを七曲がりと呼んでいます。この道筋には伝統工芸品の「彦根仏壇」の彫刻師や金箔押師など数多くの各職が軒を並べており、七曲がりの仏壇街と愛称されています。 (芹中町です)

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 電動自転車「めぐりんこ」での街歩きは、入り組んだ城下町などの探訪には、うってつけの便利な気軽な足だとつくづく感じました。

 

 

 

国宝「彦根城」

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 世に名高い国宝 彦根城。歴史上にもその名を留める事も多く、また、映画やテレビの舞台として登場して良く知られ、その独特の姿の美しさとロマンを感じる人も多い事でしょう。

 この城は、初代藩主井伊直政の嫡子直継と直考によって、約20年の歳月をかけて築城され、元和8年(1622年)に完成しました。以来、彦根藩井伊家三十万石の所領を有する城として、現在までその姿を保ち続けています。

 

 パンフレットです。

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 JR彦根駅を降りて、駅前お城通り正面に、その城郭が見えます。辿っていくとやがて、お城への表門への中濠沿いの松並木に差し掛ります。この道は藩主の参勤、着城で必ず通る道で、当時47本の松が植えられていたので、いろは47文字に準え「いろは松」と呼ばれるようになりました。

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 この通りに建立されている、井伊大老の歌碑です。

 (あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御代にこころを くだきぬるかな)

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 通りを突き当たると「二の丸佐和口多聞櫓」です。

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 通りに対して、元禄時代に建てられ、藩主用の馬が常に十数頭繋がれていた「馬屋」(重要文化財)がありますが、現在修理中で見る事ができません。

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 入場して坂を上がっていくと、「天秤櫓」(重要文化財)があります。左右対称に建てられているので、天秤のようなところからそう名付けられました。中間に廊下橋が架けられ、非常時には落とし橋となります。

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 天秤櫓を落とし橋を渡ります。この天秤櫓は彦根城独特のものです。

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 天秤櫓から太鼓門への曲がりくねった坂道です。

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 「時報鐘」です。城全体に時を告げる鐘で、今も定時に撞かれ、「日本の音風景百選」に選ばれています。

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 「太鼓門櫓」(重要文化財)です。本丸への最後の関門です。

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 この太鼓門を潜り坂道を上がります。

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 「本丸」です、正面に「天守」(国宝)が見えます。3階3層の天守で、何層もの屋根を巧みに組合せた、美しい曲線の調和がその威容を誇っています。慶長12年頃(1607年)に完成したもので、大津城から移築したと伝えられています。

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 「本丸広場」からの眺めです。

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 天守の内部の一部です。

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 天守からの眺めです、琵琶湖が眺められます。

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 遠くに伊吹山も見えます。

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 真下に天秤櫓が見えます。

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 「西の丸」広場からの天守の眺めです。

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 「西の丸広場」です。本丸の西側一帯を西の丸と呼んでいます。

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 「西の丸三重櫓」(重要文化財)です。西の丸の一番はずれ西北隅にある、三重櫓です。

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 その三重櫓の東側は、裏手からの敵の侵入を阻止するため、「大堀切」が設けられて、木橋で往来するようになっています。

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 大堀切の外部から眺めた、西の丸三重櫓です。簡素ながら美しい姿を見せてくれます。

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 「玄宮園」(名勝)城の北東にある大名庭園で、その入口です。

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 内濠に沿って、美しい玄宮園の高塀が続きます。

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 この玄宮園は、近江八景を模して作庭された縮景園で、第四代当主井伊直與によって延宝5年(1677年)に造営されました。広大な池泉を中心に、池中の島や入江に架かる9つの橋など、変化に富んだ回遊式庭園で、四季折々の風情を楽しむことができます。

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 庭園から天守を眺める事ができます。

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 「臨池閣」や「鳳翔台」(茶室)です。藩主が客人をもてなすための客殿です。

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 玄宮園から地続きの「楽々園」です。

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 彦根藩の下屋敷で、正式には「欅御殿」と呼ばれ、大老井伊直弼も、文化12年(1815年)ここで生まれました。井伊直與が延宝7年(1679年)に建築され、木材はすべて欅(けやき)で造られました。その後、楽々の間が増築され、以来楽々園の名のほうが有名になりました。

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 欅御殿の「玄関」です。

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 「遠城謙道師の碑」(おんじょうけんどう)遠城平右衛門は、旧彦根藩士で儒学や画を学び、武士の魂を磨きました。桜田門外の変において、井伊直弼公の横死の後、仏門に入り名を謙道と改め、江戸における井伊家の菩提寺、毫徳寺に移り、直弼公の墓側に庵を建て、37年に亘り墓守をし霊を慰め、至誠至忠と称賛されました。

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 内堀に面した金亀公園に建つ「井伊直弼の銅像」です。

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 井伊直弼の銅像その近くにある「花の生涯記念碑」です。井伊直弼の波乱に富んだ一生を描いた小説「花の生涯」(船橋聖一)や、NHKテレビドラマを記念して建立されました。

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 ひっそりと建つ、「家老木俣屋敷跡」です。

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 これでぐるりと城内を巡り、再び彦根城の佐和口に戻ってきました。

  (上記説明はは彦根城観光案内等より引用しました)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 平野神社は京都の西北に位置しています。丁度、北野天満宮と金閣寺の中間にあり、春の50品種に及ぶ桜の美しさはつとに有名です。御祭神は今木皇大神、久度大神、古開大神、比売大神です。

 その平野神社は、延暦13年(794年)に桓武天皇の平安京遷都にともない、奈良から京都へ、現在地に遷されました。その日を記念して、「奉燈祭」正式には御鎮座記念祭として祭事が行われます。

 

 祭事を告げる、案内掲示です。

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 昼間の平野神社です。正面大鳥居です。

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 同じく神門です。

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 普段の拝殿の様子です。

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 静かな佇まいを見せる、平野皇大神を祀る本殿です。平野造りと呼ばれる、二殿一体となった建物で、重要文化財になっています。

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 奉燈祭が行われる、日暮が迫る正面参道です。参道を始め境内には、1000ヶに近い灯明が、明るく辺りを照らし、祭事が午後6時から執り行われました。

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 提灯に照らし出された、南門です。

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 西門、大鳥居からの参道です。

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 御神木(すえひろがね)です。

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 お参りの人々が集い始めた神門です。

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 神門を潜ると参道を経て、拝殿になります。

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 ご本殿です。

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 午前10時に、御鎮座記念祭が行われ、奉燈祭の神事が午後6時から、ご本殿で始まりました。

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 その後、ご本殿前で、多くのお参りの方々の前で、火打ち石による献灯への点火が厳かに始まりました。

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 大ローソクに移された献灯は、ご本殿の左右に置かれて、多くの人々が各自ローソクを持ち、ご本殿の前に献灯しお参りしていました。

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 順次献灯する人々です。

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 その後引き続き、拝殿にて詩吟、舞楽、日本舞踊、民謡などの奉納行事が、多くのお参りの人々の前で奉納されました。

 その一コマをお届けします。

 お神楽奉納です。

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 山城舞楽(京都和楽会)です。

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 木遣り音頭です。

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 日本舞踊(佳卓舞踊会)です。

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 奉納行事も午後9時頃、多くの見物の方を魅了して恙なく終了しました。

 

 

 

 

 小浜宿(こはまじゅく)は古来より、毫摂寺の寺内町として毫摂寺を中心として栄え、その後、有馬街道、西宮街道、京伏見街道など、大阪や京都とを結ぶ交通の要衝として、旅籠や木賃宿、馬借などが並ぶ宿場町として発展してきました。その在りし日の面影を求めて訪ねてみました。

 

 小浜宿場町の案内図です。

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 入口にあたる南門跡の案内標識です。織田信長の一向宗弾圧に備えて、この小浜の地は自然の地形を上手く利用し、北、西、南の三方を大堀川が迂回し、東側は池や土塁で囲まれて城塞となっており、三方に門を構えて武装したその名残がが今も残っています。

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 「南門跡」です。西宮街道(馬街道)に通じていました。

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 首地蔵」です。西宮街道(馬街道)沿いの高台にある、首から上だけのお地蔵様です。

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 なぜ上だけしかないのか、諸説あって分かりませんが、首から上の病気にご利益があると多くの人の信仰を集めています。

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 横には十数体のお地蔵様が祀ってあります。

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 谷風岩五郎の墓」です。首地蔵のそばにあります。

 江戸末期、小浜の米穀商に生まれた岩五郎は、たった10才で米一俵を持上げた怪力といわれ、18才で角界に入り、5年後、前頭に出世し、四股名を若の柳安太郎と改名し、故郷に錦を飾り、明治5年、(1872年)皇大神社境内にて大相撲が開催されました。明治9年(1878年)に大関になり、谷風岩五郎と名乗った名力士です。

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 首地蔵のそばに流れる「大堀川」です。春には堤の染井吉野が美しく咲くそうです。

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 毫摂寺」(ごうしょうじ)です。浄土真宗本願寺派で「小浜御坊」と呼ばれ、小浜発展の中心でした、山号は出雲路山。ご本尊は阿弥陀如来です。豊臣秀吉が、有馬温泉の湯治の道中に宿泊したお寺です。

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 現在、本堂が修理中で、残念ながら拝観出来ませんでした。

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 「井川家住宅」です。江戸時代初期から残る清酒「菊仁」の造り酒屋さんです。

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 山中家と隣接する、「小浜資料館」です。この辺りの町並みが特に宿場町の名残を留めています。

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 小浜宿資料館です。戦国武将山中鹿之介を祖先とする山中家に隣接しており、小浜宿の歴史的資料を展示しています。

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 小浜皇大神社」(こはまこうたいじんじゃ)です。言い伝えによると、創建は嘉吉元年(1441年)とされています。ご祭神は天照大神と天児屋根命です。

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 「ご本殿」です。

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 境内にある「ムクノキ」の古木で、その幹の太さは驚くばかりです。保護樹木に指定されています。

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 町中の所々に道標が立てられ古道の面影を伝えています。

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 「旧和田家住宅」です。市内に残る最古級の民家で、江戸時代中頃に建築されたもので、和田家は代々米谷村飯野藩の庄屋を務められた家柄です。

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 通り庭から見た座敷です。

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 庭の向こうには土蔵が見えます。

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 「北門跡」です。有馬街道に通じています。奥の祠は火難を除く日伏せの北の愛宕さんです。毎年8月の地蔵盆には、町内総出で赤い提灯を境内一面に飾り、お供え物をして町の人々を厄災から守るお祭りが行われます。

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 「法仙寺」です。浄土宗 知恩院派のお寺です。ご本尊は立像の阿弥陀仏です。開基は沙門法仙です。

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 「本堂」です。

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 「東門跡」です。京伏見街道に通じています。

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 帰路逆瀬川駅近くの、伊和志津神社」(いわしづじんじゃ)に立寄りました。創建は古く、約1060年前、延喜式に記載されている大社で、お祭神は素戔嗚尊です。

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 「参道」です、左右に多くの灯籠が建ち並んでいます。

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 広い境内です。

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 「本殿」です。一間春日造、杮葺で建立年代は分かりませんが、細部の手法から、江戸時代中期の建築と考えられています。

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 「愛宕社」です。火の神様「加具土命」をお祀りし防火をお祈りしています。

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 帰路、利用した、阪急電車、逆瀬川駅前の人気の「からくり時計」からの逆瀬川駅です。

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  「小浜宿」へは阪急電車 今津線 逆瀬川駅下車、駅東口から宝塚行きバス乗車、約15分、宝塚市役所前下車より歩く、

 

 

 琳派の祖、本阿弥光悦が光悦村を拓いた京都洛北鷹峯に、広大な敷地を構える「しょうざん」。その庭園と「峰玉亭」が「京の夏の旅」で特別公開されている機会に訪れてまいりました。

この「しょうざん」は、西陣に生まれ、戦後ウールお召しで財を成した松山政雄さんが、着物文化と京の食文化を広めるために築き上げられたものです。

 

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このしょうざんには、北庭と南庭がありますが、今回は北庭を拝見してきました。

 北庭の入口「福徳門」です

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門を潜ると、2万5千坪と言われる広大な庭が眼前に広がります。

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回遊式庭園をしばらく進むと、左に峰玉亭への小道があり、玄関に至ります。
 この峰玉亭は、全国の取引先の迎賓館を目的に数寄屋造りの贅を凝らして建てられたものですが、その完成を見ずに松山政雄さんは故人となられたそうです。
 
 玄関です。
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 玄関脇正面前面です。hou5.JPG

 
 
 玄関の間です。
 靴を脱いで上がると、案内の方が順次説明をして下さいます。
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 最初は栖鳳の間です。
 廊下から入ると正面と右の間仕切りには、狩野派の襖絵が、そして左手床の間には、竹内栖鳳の、竹に雀が描かれた掛軸が掛かっています。
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 襖の引き手の大きさにちょっと驚きです。
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 広縁からは大きなガラス障子越しに、庭が大きく広がっています。

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この峰玉亭は、日本各地から銘木を集めて建築され、広縁には栃の床板が、また随所に北山杉や竹材が多く用いられています。
 縁桁や軒桁には長尺の北山杉の丸桁が、また垂木は子丸太を、柱や長押には絞り丸太、面皮丸太、磨き丸太を随所に使用しています。床の間には南天の床柱に、床の間の地板には欅の1枚板など逸品揃いです。天井には煤竹が多く用いられ、また胡麻竹、篠竹、など、竹材が多用され、天井板には屋久杉、船底天井や格天井など造作の難しい匠の技術が生かされています。また障子や欄間などには面取など指物師の細かい作業が見て取れます。
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 吉井勇の間です。床の間には吉井勇の額が掛かっていました。
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 円山応挙の襖絵が見られます。
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 この部屋の天井も、凝った折り上げ天井になっています、また大きく窓が取ってあり、障子の桟も面取で指物師も腕を振るった事でしょう。


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 深い軒先から池を通して緑が色濃く映えます。
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 峰玉亭を出て回遊式庭園を順路に従って進みます。
 この北庭は、2万5千坪という広大な庭園で、鷹ヶ峰三山を借景に、北山の台杉と紀州青石を所々に配し、また四季折々に表情を替え楽しめるように、楓や梅なども植栽されています。
 北山の台杉は、樹齢100年から500年といわれる古木が1000本近くあると言われています。台杉と紀州の青石と苔がおりなす景観です。
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 玉庵です。
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 庭園には、紙屋川から清流が引かれて、小川が流れています。
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 鷹ヶ峰の三山が借景になっています。
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 酒樽茶室です。
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 楓も多く、晩秋に再度訪れてみたいとの感を深くしました。
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 「聴松庵」 裏千家11代玄々斎設計による茶室です。移築されたものです。
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 遊び心でしょうか。お暇の挨拶です。
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