世に名高い国宝 彦根城。歴史上にもその名を留める事も多く、また、映画やテレビの舞台として登場して良く知られ、その独特の姿の美しさとロマンを感じる人も多い事でしょう。
この城は、初代藩主井伊直政の嫡子直継と直考によって、約20年の歳月をかけて築城され、元和8年(1622年)に完成しました。以来、彦根藩井伊家三十万石の所領を有する城として、現在までその姿を保ち続けています。
パンフレットです。
JR彦根駅を降りて、駅前お城通り正面に、その城郭が見えます。辿っていくとやがて、お城への表門への中濠沿いの松並木に差し掛ります。この道は藩主の参勤、着城で必ず通る道で、当時47本の松が植えられていたので、いろは47文字に準え「いろは松」と呼ばれるようになりました。
この通りに建立されている、井伊大老の歌碑です。
(あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御代にこころを くだきぬるかな)
通りを突き当たると「二の丸佐和口多聞櫓」です。
通りに対して、元禄時代に建てられ、藩主用の馬が常に十数頭繋がれていた「馬屋」(重要文化財)がありますが、現在修理中で見る事ができません。
入場して坂を上がっていくと、「天秤櫓」(重要文化財)があります。左右対称に建てられているので、天秤のようなところからそう名付けられました。中間に廊下橋が架けられ、非常時には落とし橋となります。
天秤櫓を落とし橋を渡ります。この天秤櫓は彦根城独特のものです。
天秤櫓から太鼓門への曲がりくねった坂道です。
「時報鐘」です。城全体に時を告げる鐘で、今も定時に撞かれ、「日本の音風景百選」に選ばれています。
「太鼓門櫓」(重要文化財)です。本丸への最後の関門です。
この太鼓門を潜り坂道を上がります。
「本丸」です、正面に「天守」(国宝)が見えます。3階3層の天守で、何層もの屋根を巧みに組合せた、美しい曲線の調和がその威容を誇っています。慶長12年頃(1607年)に完成したもので、大津城から移築したと伝えられています。
「本丸広場」からの眺めです。
天守の内部の一部です。
天守からの眺めです、琵琶湖が眺められます。
遠くに伊吹山も見えます。
真下に天秤櫓が見えます。
「西の丸」広場からの天守の眺めです。
「西の丸広場」です。本丸の西側一帯を西の丸と呼んでいます。
「西の丸三重櫓」(重要文化財)です。西の丸の一番はずれ西北隅にある、三重櫓です。
その三重櫓の東側は、裏手からの敵の侵入を阻止するため、「大堀切」が設けられて、木橋で往来するようになっています。
大堀切の外部から眺めた、西の丸三重櫓です。簡素ながら美しい姿を見せてくれます。
「玄宮園」(名勝)城の北東にある大名庭園で、その入口です。
内濠に沿って、美しい玄宮園の高塀が続きます。
この玄宮園は、近江八景を模して作庭された縮景園で、第四代当主井伊直與によって延宝5年(1677年)に造営されました。広大な池泉を中心に、池中の島や入江に架かる9つの橋など、変化に富んだ回遊式庭園で、四季折々の風情を楽しむことができます。
庭園から天守を眺める事ができます。
「臨池閣」や「鳳翔台」(茶室)です。藩主が客人をもてなすための客殿です。
玄宮園から地続きの「楽々園」です。
彦根藩の下屋敷で、正式には「欅御殿」と呼ばれ、大老井伊直弼も、文化12年(1815年)ここで生まれました。井伊直與が延宝7年(1679年)に建築され、木材はすべて欅(けやき)で造られました。その後、楽々の間が増築され、以来楽々園の名のほうが有名になりました。
欅御殿の「玄関」です。
「遠城謙道師の碑」(おんじょうけんどう)遠城平右衛門は、旧彦根藩士で儒学や画を学び、武士の魂を磨きました。桜田門外の変において、井伊直弼公の横死の後、仏門に入り名を謙道と改め、江戸における井伊家の菩提寺、毫徳寺に移り、直弼公の墓側に庵を建て、37年に亘り墓守をし霊を慰め、至誠至忠と称賛されました。
内堀に面した金亀公園に建つ「井伊直弼の銅像」です。
井伊直弼の銅像その近くにある「花の生涯記念碑」です。井伊直弼の波乱に富んだ一生を描いた小説「花の生涯」(船橋聖一)や、NHKテレビドラマを記念して建立されました。
ひっそりと建つ、「家老木俣屋敷跡」です。
これでぐるりと城内を巡り、再び彦根城の佐和口に戻ってきました。
(上記説明はは彦根城観光案内等より引用しました)
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