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 丹波亀山城は明智光秀が丹波統治の拠点として大正6年(1578年)に築城し、その後、慶長15年(1610年)岡部長盛の時代に城郭城下町が完成しました。廃藩置県後、明治11年(1878年)廃城になり、荒れ果てていましたが、大正8年(1919年)大本教が買い取り石垣などを再築し、宗教弾圧の幾多の苦難を乗越え、神殿を建設して今に至っています。地名は明治2年(1869年)三重県亀山市と紛らわしいため亀山から亀岡へと改称されました。その亀山の城下町は光秀の善政により大いに発展し、今も寺社や町家がその名残をあちこちに留めています。その城下町を毎度お世話になっているレンタサイクルを利用して廻ってきました。

 

「城下町散策地図」です。(亀岡市観光協会のパンフレットより転写しました。)


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 「JR亀岡駅」です。(2008年)に新しく建築された駅舎です。

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 「亀岡駅前」より「南郷公園」亀山城跡を望んでいます。

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 「南郷公園」です。亀山城の外堀であった「南郷池」を中心にして「南郷公園」として整備して、市民の憩いの場となっています。

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 「南郷公園」の入口です。左右に亀山城のモニュメントとして「鯱瓦」飾られています。

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 「内堀」です。亀山城は内堀・外堀・惣堀の三重の堀と御土居で仕切られていました。

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 「南郷池」東端の亀山城保津門跡です。(山陰丹府桑田亀山図による)

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 「南郷池」から「春日坂通り」に出て少し南下すると「大本教」「天恩郷」の正門があります。

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 「正面入口」を入ると広大な(総面積8万2千㎡ 2万5千坪)天恩郷の神苑が広がっています。真奈井通りです。

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         「神苑」の案内図です。

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  「東光苑広場」です。正面「みろく会館」 右の階段を上がれば「神教殿」です。

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        城跡に向かいます。

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    左手の「手水舎」を経て、「万祥橋」を渡り「万祥殿」の受付にてお祓いを受けて城址に向かいます。

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    「中門」をくぐり掃き清められた「神苑」を進んで行きます。

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    森閑とした木立の中に「丹波亀山城跡」があります。

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   「丹波亀山城跡」は現在は石垣と濠を残すのみで、5層の天守閣と3重の堀をめぐらせて威容を誇った城も石垣などが往時の姿を留めているのみです。

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   「亀岡の名木」 「大本天恩郷の大イチョウ」 光秀の手植えと伝えられ、「亀岡音頭」にも歌われた名木です。胸髙幹周3.12m樹高20mです。

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     石垣に沿って進んで行きます。石垣の上部は「神域」として立入り禁止です。

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     右に「小安石」と「大安石」が並び、石段を進むと観音様がお祀りしてあります。

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     「朝陽館」「瑞祥館」と続いています。

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    「瑞祥館」です。瑞祥館の中に入り、「月の輪台」を巡っていきます。

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     「月の輪台」から「瑞祥門」に抜けて真奈井通りに戻ってきます。

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     「みろく会館」までもどり「春日坂通り」に出ました。

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     「春日坂通り」を少し南に下がり「旅篭町」の信号を左に折れると「古世親水公園」(古世町)があります。

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   小さな公園ですが昔から豊富な湧水で、此の辺りの人々の生活を支え、また地域の親睦の場として利用されています。

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    「親水公園」のそばの「桜の馬場跡」(馬見所)(古世町)です。寛政5年(1793年)に「馬見所」と「騎射組」が置かれ、馬廻関係の藩士の居住区となっていました。(山陰丹府桑田亀山図による)

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   同じく「親水公園」の北に位置する「王地山稲荷大明神」(古世町)です。 亀山藩主の松平信岑が寛永元年(1748年)に丹波篠山の王地山から亀山城内に勧請されました。五穀豊穰、商売繁盛にご利益があると広く信仰されています。

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   「旅篭町」の「土手丁」です。 寛政5年(1793年)「三の丸南東部」で「土手町」と呼ばれた武家地にあたり、藩士の武家屋敷が連なっていました。(山陰丹府桑田亀山図による)

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   「古世親水公園」から南に下がると「称名寺」(西堅町20番地)があります。 総本山知恩院に属する 團忠上人が寛永20年(1643年)に、京都百万遍の知恩寺末寺として現在地に当時の開基となりました。その後、焼失しましたが正徳4年(1714年)本堂が再建されました。山門の薬医門は元禄11年(1698年)の建造で城下の寺院の中では最古の建物です。

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           正面が「本堂」です。

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    「鐘楼」です。延亨5年(1748年)の建造です。

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    平安時代中期の女流歌人「和泉式部の墓」五重宝筺印塔です。

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     「称名寺」近くの「ひしほの匠庵」です。(突抜町30番地) 創業、慶応年間で亀山城近くで創業した130年の歴史を持つ「難波醤油醸造所」です。

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    処々に古い町家があります。その一つ「妻入町家」といわれる町家です。
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   「称名寺」を西へ進むと、「丹山酒造」(たんざんしゅぞう)があります。(横町7番地) 創業明治39年(1906年)蔵に5ヶの井戸があり良質の豊かな水をもたらし、「寶満吉祥井戸」といわれています。

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     この辺りにも古い民家が独特の景観を提供してくれています。「平入町家」といわれる町家です。2階には京都の町家にもよく見られる虫籃窓(むしこまど)が設けられています。

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    各通りには「通り名」を冠した灯籠が設置されています。京町通りです。

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    「呉服町通り」です。この「平入町家」にも「虫籃窓」や1階には「格子窓」、「犬矢来」が設けられ、町家独特の風情を見せています。

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    「呉服町通り」です、丹波亀山城の「火の見櫓跡」(呉服町)です。 元禄9年(1696年)呉服町のこの地に建てられた。

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         塩屋町通りにある、「蛭子山」(えびすやま)(塩谷町)の「鉾蔵」です。城下町には10月に行われる亀岡祭りの鉾蔵が11基あります、その内の一基です。

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    「亀山五ヶ寺」の一つ「専念寺」(塩谷町)です。 天正4年(1576年)性誉上人が、織田信長の保護を受け開山したと伝えられます。亀山藩主松平忠昭の菩提寺です。専念寺の廻りには、正誓寺、宗福寺、誓顕寺と4つのお寺が軒を連ねています。

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      「塩屋町通り」の風景です。

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   「誓顕寺」から目と鼻の先に、「法華寺」(ほっけじ)(本町67番地)があります。寛正5年(1464年)円珠院日玉上人が開山しました。本堂には「身延山日号上人作」の「日蓮上人像」が祀られています。

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   「法華寺」に隣接して、「寿仙院」「本門寺」(本町60番地)が並んでいます。この狭い地域に多くの寺院がひしめいているのには驚かされます。

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      「亀山五ヶ寺」の一つ「寿仙院」です。光秀が帰依した春光和尚の開山とされています。天正9年(1591年)亀山城主となった小早川秀秋は、5ヶ所のお寺に米を寄進し子供の菩提を弔いました、これらのお寺を「亀山5ヶ寺」と呼ばれています。

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  「本門寺」です。(本町62番地) 「本門寺」は正和年間に日弁の弟子日寿により京都に創建されました、その後、戦乱などにより焼失し、慶長5年(1600年)桑田郡山内郷から移転し再建されました。

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   「本堂」です。「大菩薩像」安置されています。

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    「本町カフェ」(城下町観光案内所)(本町51番地) 旧の山陰街道に面した「本町通り」にあり亀岡市観光協会の案内所です。お寺の密集した丁度まん中にあり、疲れた身体を一服するのに最適です。

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    入ったところは「案内所」で各種資料やパンフレットなど、また観光案内の相談に乗ってもらえます。

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   町家の趣を残し改装してカフェとなっています。食事や飲み物などが提供され、奥では婦人の団体客が休憩していました。

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   町並みの整った「本町通り」です。

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    このような町家が処々に見られます。

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    「本町カフェ」のそばの「秋葉神社」(宮前町岡山34番地)です。

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    「亀岡の名木」「秋葉神社のイスノキ」です。胸高幹周1.55m樹高14mです。

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    「秋葉神社」にある「惣構土居」です。 亀山城の周囲には、土居と堀からなる「惣構」が巡らされていました、高さは約4mあったそうで、その遺構です。

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    「穴太口」です。「亀山城内外」は三重の堀と御土居で仕切られていたその「穴太方面」への出入口だったところです。 

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      「左あなお妙けん道」の道標です。

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    「亀山5ヶ寺」の一つ「大園寺」(西町11番地)です。天文22年(1553年)泉誉秀光が川北の地に開山しましたが、その後、光秀の時代に城下町の要衝の要となる「穴太道」のこの地に移されました。

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   「本堂」は現在改修中です。「薬師堂」です。薬師如来像(亀山薬師)珍しい鋳鉄製が祀られています。

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       「大園寺」付近の町並みです。

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      西町にある、「八幡山」(西町)の鉾蔵です。亀岡祭りの鉾蔵が11基あります、その内の一基です。

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    「地蔵院」です。安置されている「地蔵菩薩」は、「北町の地蔵さん」としてまた「安産の地藏さん」として親しまれています。

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   「愛宕神社」の道標や、常夜灯が所々に建っていて、結びつきの強さを感じさせます。

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   「銀札会所跡」(北町)です。江戸時代中期、松平信岑が藩主時代ごろより「銀納」が導入され盛んになりました、この付近は「銀札」の取引所である「銀札会所」があったところです。城下町の各所にはこのような「駒形高札」が設置されていますその数、60余りあるそうです。

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      近代的な建物の建ち並ぶ商店街にも昔ながらの商店を見ることができます。

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    「田中源太郎翁旧邸」(楽々荘)です。(北町44) 山陰本線の生みの親と言われる実業家田中源太郎翁の生家です。

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  「形原神社」(横町)です。また「亀山城大手門跡」です。城内へはお堀と御土居で仕切られ各方面に五つの「城門」が配置されていました、南方面の入口で「正面大手」の「大手門」のあったところです。

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  「亀山城」の西門です。

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    「御作事跡」(内丸町)です。寛政5年(1793年)の「山陰丹府桑田亀山図」によると、「三の丸西端御作事」と記され、藩の造営修理を担当していたところです。

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   「南郷地蔵」(南郷町)です。「山陰丹府桑田亀山図」によると、寛政5年(1793年)亀山城外堀に面して「南郷」という地名と共に「十一体の地蔵さん」が椋の木の大木に守られるように祀られてきたと伝えています。祠の後の大木は「南郷池畔のエノキ」として「亀岡の名木」となっています。胸高幹周4.6m樹高23mもあります。

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    ぐるっと城下町を一周して「南郷池」の正面まで帰ってきました。

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     「南郷公園」入口正面の在りし日の「亀山城天守閣」の図のモニュメントです。

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 京都市域に隣接する亀岡市、初めてゆっくりと巡ってみて、丹波亀山城の城下町保存に、亀岡市も非常に努力していられる事を感じました。一人でも多くの人に、「明智光秀」の波乱万丈に生き、丹波の地に善政を施した「明智光秀」を知ってもらいたいと市を挙げて、NHK大河ドラマの主人公にとの署名運動を通じて働きかけをされています。近い内にそのようなドラマが見られることを楽しみにしています。

 

 

 

 

 

 

 亀岡市は旧名は亀山と名乗り、丹波の国の中心都市でした。明智光秀が丹波亀山城を築き城下町として発展し、現在の亀岡市に至っています。京都に近く、古からの歴史の変遷を重ねてきただけに、由緒のある多くの社寺を抱え、今も人々の深い信仰に支えられて維持されています。それらの社寺をぶらりと訪れてきました。

 

篠村八幡宮(しのむらはちまんぐう)篠町篠八幡裏4

足利尊氏ゆかりの神社です。元弘3年(1333年)足利尊氏は1万騎の兵を集め、六波羅探題を倒すため、願文を奉納し社頭で挙兵を行ったとされています。

  正面鳥居です。

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  鳥居を潜ると木立の中、参道が続いています。

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  広い境内です。「拝殿」です。

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  「本殿」です。ご祭神は応神天皇 仲哀天皇 神功皇后です。

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 「乾疫神社」(いぬいやくじんじゃ)です。悪霊怨霊を鎮めるため、厄除の信仰があります。

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   記念の「石碑」です。

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  「矢塚」足利尊氏戦勝祈願の「願文」を読み上げ、必勝を祈願して、矢を1本づつ奉納し、その矢が塚のように積み上げられたという、江戸時代の建立です。

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  椎の大木「ツブラジイ」亀岡名木100選で、胸髙幹周4.47m樹高27mです。

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  村山神社(むらやまじんじゃ)篠町森山先34

 創建は不明ですが、延喜式神名帳に記載されているのでそれ以前の創建と思はれます。

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 参道を進むと池があります。

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 池には「厳島社」が祀られています。池に架かる石橋を渡って参道を進みます。

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 右が「本殿」への石段、左が「八幡宮」への参道です。長い石段を上がっていきます。

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 「本殿」と「八幡宮」が並んで建っています、「本殿」には大山祇命 「八幡宮」に応神天皇と仁徳天皇を祀っています。

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 鍬山神社(くわやまじんじゃ)上矢田町上垣内22-2

鍬山神社は丹波の国を造った神様を祀る神社で、和銅2年(709年)の創建と伝えられています。国造りとして、丹波の地を湖から保津峡を開削し、肥沃な盆地にする際、使われた鍬を積み上げたことが社名のゆわれと言われます。境内は紅葉の名所で「矢田の紅葉」として有名です。

 参道の「大鳥居」です。正面には広大な神社の森を見せています。
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 広い参道が続いています。右手に「やしろ」があります。

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  広い境内には樹木が生茂り赤い鳥居が目を惹きます。

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 赤い鳥居を潜ると正面に「拝殿」が見えます。

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 「拝殿」です。背後に「鍬山宮」と「八幡宮」の本殿が並んで建っています。

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  鍬山神社「鍬山宮」の正面です。

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  鍬山神社「鍬山宮」です。ご祭神は大国主命です。

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 鍬山神社「八幡宮」です。ご祭神は応神天皇です。

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  「拝殿」から右には「心字池」という大きな池があります。「弁財天が」祀られています。

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  出雲大社京都分院(いずもたいしゃきょうとぶんいん)下矢田町中山37-5

 縁結びで有名な島根県の「出雲大社」の京都分院です。京都縦貫自動車道沿いにあります、山沿いで辺りには何もなく静かな佇まいです。

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 ご祭神は「大国主大神」で「出雲大社」の分霊をお祀りしています。平成5年にこの地に遷宮造営された近代的な新しい建物です。

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  「拝殿」です。

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 出雲大社の横には自然豊かな「平和台公園」があります。

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  穴太寺門前にある「亀岡の名木」「原田邸のセンダン」です。胸髙幹周4.4m樹高17mあります。

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 穴太寺(あなおうじ)曽我部町穴太東ノ辻46

西国観音霊場二十一番札所で、慶雲2年(705年)文武天皇の時代に大伴古麿に寄って創建されたと伝えられる丹波屈指の古刹です。

「仁王門」(京都府登録文化財)です。左右に守護神仁王像が安置されています。

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  仁王像「阿形像」です。

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  仁王像「吽形像」です。

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  仁王門から参道を経て正面に「本堂」があります。

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  「多宝塔」(京都府登録文化財)です。小振りながら古寺の雰囲気を醸しだしています。「釈迦如来」と「多宝如来」の仏像がお祀りされています。

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「本堂」です。現在の本堂(京都府登録文化財)は享保20年(1735年)に再建されたものです。

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 ご本尊は「聖観世音菩薩」、「薬師如来」です。千社札が至るところに貼られているところは古寺らしい。

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  円山応挙生誕地(まるやまおうきょせいたんち)曽我部町穴太

 「穴太寺」から少し行くと「円山応挙生誕地」の石碑が見られます。江戸時代中期の絵師で、この地の農家の出身と言われています。

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金剛寺(こんごうじ)曽我部町穴太宮垣内43

 円山応挙ゆかりのお寺です。8歳の時に金剛寺に入門し、その後15歳の時に京都に出て円山派を樹立しました。通称「応挙寺」とも言われます。

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 「鐘楼門」です。数少ない門です。

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 「本堂」です。画家として名を挙げた応挙はその後、本堂の襖、壁に山水図、波濤図、群仙図を描きました、この三作は国の重要文化財に指定されています。

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 神蔵寺(じんぞうじ)稗田野町佐伯岩谷丿内院丿芝

朝日山の山深く「神蔵寺」があります。通称は「佐伯薬師」、「稗田野薬師」とも言われます。延暦元年(782年)最澄開基の天台宗のお寺で、最澄自らが彫った「木造薬師如来坐像」は国指定重要文化財です。

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 入口に架かる朱塗りの「みかえり橋」です。

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  「山門」です。

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  山門をくぐり、「本堂」への石段です。

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 「本堂」(瑠璃殿)です。

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 山門前の風景です。紅葉の名所です。
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 稗田野神社(ひえだのじんじゃ)稗田野町佐伯垣内内亦1

 和銅元年(709年)の創建です。故事によれば、約3000年ほど前この地に住着いた人々が食物の神、野山の神を祀り、田畑を造り収穫した穀物を供え作物の豊作と子孫繁栄の祈りました、その故事に倣い、五穀豊穰、女性の守り神として信仰を集めています。神社の南参道の大鳥居です。

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 「石の環くぐり」願事を念じながらくぐると達成する体力を授かるという石の環です。

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 「本殿」です。焼失したあと、平成4年に再建されました。

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 「必勝願掛け石」です。

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 「稗田阿禮社」古事記編纂に携わった「稗田阿禮」がこの地に住んでいたいう「稗田阿禮」をお祀りしています。稗田阿禮の社と石碑です。

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 「拝殿」です。

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 「社殿」です。ご祭神は「保食命」(食物起源神話の神、食物の神) 「大山祇命」「野椎命」(野を司る神、作物の神)です。

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 末社の「えびす神社」です。

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 龍潭寺(りょうたんじ)稗田野町太田東谷40

室町時代に建てられた梅雲寺が焼失し細川氏が明応6年(1497年)に「龍潭寺」として再建されましたが、その後「明智光秀」の丹波攻めで焼失その後再建されました。昔から子供の「かん虫」に効き目があると広く信仰を集めています。

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 石段を上がり木立の中の長い参道を進みます。

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 「山門」です。

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  「本堂」です。

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  広大な境内に伽藍と美しい庭園が広がります。

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   「青巌塔」です。

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  「鐘楼」です

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大井神社(おおいじんじゃ)大井町並川1丁目3ー25

 和銅3年(710年)の創建、ご祭神「木股命」が京都嵐山、松尾神社から亀に乗り保津川を遡って来られましたが、水勢が強く、進めなくなり、鯉に乗換えてきたと伝えられ、その由縁から通称「鯉明神」と呼ばれ、この地では、鯉は神の使いと伝えられ、鯉は食さず、鯉のぼりも上げない風習が伝わっています。

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 大井神社の入口です。石段を上がっていきます。

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 広い境内です。

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  参道から正面に拝殿です。

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  「拝殿」と奥に「本殿」です。 

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 「本殿」です。流れ造り、銅版葺きです。新しく平成21年竣工しました。

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   「境内」です。

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   「手水舎」です。

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  「天満宮社」です。「菅原道真公」をお祀りしています。

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  「鯉の石碑」です。

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   神泉「丹の池」(にのいけ)と「太鼓橋」です。

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  庭園には、「やまぶき」が咲いています。

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 社頭から「馬場」と「亀岡市街」方向を見ています。

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 亀岡駅前から東方を見ると、牛松山から三郎ヶ岳の形の良い稜線が続いています、その山麓から桂川左岸に広がる亀岡盆地、のどかな田園風景が広がり、その山裾を縫うように丹波七福神を祀るお寺が点在し、また多くの史跡が保存されています。バイパス道路が出来て、昔ながらの家並みが残る古道には車の往来も少なく、サイクリングやウオーキングなどでゆっくりそれ等を巡ることができます。

 

 丹波七福神めぐりと史跡の案内図です。(千歳町自治会のホームページより転載しました)

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亀岡駅の上から保津町、千歳町方向です。手前の山が牛松山、奥に見えるのが三郎ヶ岳です。

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「保津橋」です。JR亀岡駅から桂川に架かる保津橋を渡ると保津町へと入っていきます。

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「明智越え」を行く登山口の近くにある、古い町並みの土塀の続く養源寺付近です。

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 「養源寺」です。戦国時代の京都の豪商「角倉了以」を祀っています。嵐山に縁の深い大堰川や高瀬川を私財を投じて開削したことで有名です。

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 「山門」です。

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 養源寺のすぐそばにある「旧亀山城内新御殿の門」(亀岡市指定有形文化財)です。たまたま通りかかって立派な門構えを見て、寄ってみましたが中には入れませんでした。

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保津町から千歳町に入っていきます。

 七福神めぐり、第1番「神応寺」(じんのうじ)です。毘沙門天をお祀りしています。

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  「毘沙門天」が門前に控えて参拝客を迎えています。

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   「山門」です。

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  木造極彩色の「毘沙門天像」をお祀りしています。

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  奥の山裾にに「石仏庭園」が広がっています。

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  「童地蔵」がたくさん安置されています。

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  七福神めぐり、第2番「養仙寺」(ようせんじ)です。布袋尊をお祀りしています。

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 石段を上ると「山門」です。

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  門前にでんと「布袋様」が控えていらっしゃいます。布袋様は「契此」(かいし)と呼ばれた中国時代の実在していた高僧です。

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  「大布袋尊像」がお祀りされています。

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  境内には600余りの「布袋像」があちらこちらの安置されています。

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  門前からは背後の山並みが美しく青空にその姿を浮かばせています。
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 旧道から離れて西へ行くと史跡「丹波国分寺跡」があります。その場所から見ると、周囲は田畑の広がり、背後の牛松山の優しい稜線が目に入ります

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 「丹波国分寺跡」国の史跡指定です。聖武天皇が五穀豊穰、国歌安泰を祈り、各地に建立された国分寺跡です、当時境内は、南北247m東西243mで、七重塔、金堂、講堂などの豪華な伽藍が配されていましたが、その後焼失し、現在の建物は安永年間に再建されたものです。

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  「参道」です。 

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  「山門」です。

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  「本堂」です。ご本尊は11世紀作の「薬師如来坐像」(重要文化財)です。

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  古の姿を伝える「手水鉢」です。

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  亀岡市の名木 「オハツキイチョウ」胸髙幹周4.3m樹高22mで亀岡市の天然記念物です。俗にチチイチョウと呼ばれ、母乳がよく出ると信仰されてきました。

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 また旧道に戻ると「牛松山」の麓に「愛宕神社」があります。

 「愛宕神社」は継体元年(507年)の創建と言われています。社殿は鎌倉時代に造られたといわれ、国の重要文化財に指定されています。当神社より、山城の国の鷹ヶ峰に分霊後、そこから私達には馴染の「愛宕山」に遷され、さらにそこから全国の一千余社に分霊されたものでそのことから「愛宕の本宮」と尊称されています。

一画は「牛松山」に続く愛宕の森となっています、

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  「愛宕神社」の入口です。

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  「本殿」です。覆いの中に鎮座しています。祭神は 火産霊神 伊邪那美神 大国主神をお祀りしています。火伏せの神として信仰されています。

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  「拝殿」です。

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 摂社の「八幡宮神社」です。

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  愛宕の森には多くの大木が空を覆うように広がっています。

  「愛宕神社の大スギ」(亀岡の名木)胸髙幹周5.0m樹高29mです。

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  「愛宕神社の大モミ」(亀岡の名木)です。胸髙幹周3.6m樹高32mあります。

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七福神めぐり、第3番「蔵宝寺」(ぞうほうじ)です。「大黒天」をお祀りしています。 

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  「本堂」です。

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  お庭には親しみのある「大黒さん」が鎮座しています。

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  「薬師堂」には「薬師如来像」がお祀りされています。

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七福神めぐり、第4番「金光寺」(こんこうじ)です。「弁財天」をお祀りしています。小高いお寺の山門前からは長閑な田園風景が広がります。

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  「山門」です。

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  「七福神」で唯一の女性です。元はインドの神様です。

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   「鐘楼」です。

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  金光寺のすぐそばにある「耕雲寺」です。

七福神めぐり、第5番「耕雲寺」(こううんじ)です。「恵比寿」さんをお祀りしています。

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  「恵比寿」さんが控えています。

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  田植えの済んだ田圃が見渡す限り目に優しく広がります。

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 「御蔭山」の山裾、「出雲大神宮」から西へ行くと田圃の中にポツンと「千歳車塚古墳」があります。一見するとただの土盛りにしか見えませんが、古墳時代中期に築造された前方後円墳です。全長80m後円部直径41m前方部幅45.5m高さ6mの大きさがあります。

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   全体像です。

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  「愛宕神社の常夜灯」です。

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 古墳からまた旧道に戻ると「出雲大神宮」です。縁結びの神様として有名なこの出雲大神宮は、和銅2年(709年)の創建と伝えられます。世に名高い島根の「出雲大社」はこの「出雲大神宮」から請けたもので、よって「出雲大神宮」は「元出雲」の通称で呼ばれています。「社殿」は鎌倉時代に造営されたものといわれ、、例年4月18日に「鎮花祭」が行われ「出雲風流花踊り」(京都府無形民俗文化財)が奉納されます。

「出雲大神宮参道」です。

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 「拝殿」とその後方に「本殿」があります。後方の「御蔭山」をご神体としています。

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  「本殿正面」です。(国重要文化財)三間流造檜皮葺で大国主命と三穂津姫命をお祀りしています。

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  広い境内には摂社、末社が数多く鎮座しています。「夫婦岩」です。

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  「黒太夫社」です。

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  「奥社」への参拝道です。

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  「磐座」です。nana60.JPG

 

  境内に咲く「ホタルブクロ」です。

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  境内そばの田植えの終わった「神饌田」です。

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 七福神めぐり、第6番「極楽寺」(ごくらくじ)です。「寿老人」をお祀りしています。不老長寿の神様です。門前です。

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  「山門」です。

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   「本堂」です。

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七福神めぐり、第7番「東光寺」(とうこうじ)です。「福禄寿」をお祀りしています。この辺りは「三郎ヶ岳」の山麓となり万緑の中を辿っていきます。

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   「山門」です。

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  参道には手入れの行き届いたお庭があります。

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  「本堂」です。

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   ユニークな「福禄寿」さまから福徳と長寿を授けていただけます。

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 かって牛松山に登り、北方稜線をJR八木駅まで歩いたり、三郎ヶ岳を登ったりと、懐かしい思いを抱いてこの地を今回訪れ、今も昔も変わらぬ保津町から千歳町の家並みや田園風景、日本の原風景を留めていることに、嬉しい思いと同時に地元の人々の保存に対する努力を感じつつ、いつまでもこの景観を残して欲しいと思うばかりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 江戸時代の重要な街道の一つであった西国街道、京都の東寺口から摂津西宮まで、向日市、長岡京市、高槻など淀川右岸を通り西宮まで、さらに中国九州の西国へと続き、近世から近代まで陸上の大動脈として、文化社会産業の発展に大いに寄与してきました。その西国街道は、向日市では古くから町の発展に貢献し、街道沿いに多くの史跡や建造物が残されています。

 

 JR向日町駅前の整備に伴い、新しく寺戸川の「深田橋」畔にモニュメントが設置されました。その内の説明板です。

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 「深田橋」畔のモニュメントです。

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  阪急東向日駅前の「築榊講常夜燈」(つきさかこうじょうやとう)のある場所ですが、現在整備中で移転し、工事が済み次第、元の位置に設置されそうです。天保13年(1842年)の建立で、西国街道を往来する人々の安全を見守っていました。

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 「向日町道路元標」大正9年(1920年)に設置された道路元標です。町の中心部に設置され、道路の起点として市町村間の距離標示の原点となったものです。

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  「須田家住宅」京都府有形文化財です。「向日町道路元標」のそば、街道沿いに建っています。屋号を「松葉屋」といい、醤油を製造販売をしていました。この辺りには同じような商家が数多くあります。

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  古い町並みの名残が処々にあります。

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  「富永屋」です。玄関横に説明板が取付けられています。

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  「富永屋」の外観です。富永屋は江戸時代始めから戦後しばらくまで、宿屋、料理屋を営んでいました。江戸中期に建てられた貴重な町家です。

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 「向日神社」です。平安時代の「延喜式神名帳」にも記載される格式の高い古社で、養老2年(718年)に建立されたと伝えられています。中世の向日神社は村の守り神として地域の象徴として畏敬を集めてきました。向日という地名のもとになった神社です。

 「西国街道」に面した参道の「大鳥居」です。

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    大鳥居の左側の「説法石」です。鎌倉時代末期に「日像上人」が、京での布教活動を禁じられ、洛外追放によりこの地でこの石の上から人々に説法したと伝えられています。
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  「大鳥居」を潜ると緑の濃い石畳の参道が長く続いています。

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  長い石畳の参道の奥には、正面には「舞楽殿」が見えます。

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  参道の途中、右側には「勝山稲荷神社」があります。商売繁盛の神様です。

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     「本殿」です。

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   「手水舎」です。18世紀後期に建てられました。

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  参道正面に建つ「舞楽殿」です。

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   「舞楽殿」です。奥に「拝殿」が見えます。

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 「拝殿」です。桁行約9m梁行約3.6m入母屋造りで屋根は向唐破風、檜皮葺きという格式ある形です。

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   「拝殿」の奥に「本殿」があります。向日神、玉依姫命、神武天皇をお祀りしています。

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   「天満宮社」です。天保四年(1833年)建立されました。学業成就の神様です。

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   「春日社」です。弁財天、身代不動尊をお祀りしています。

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   水上勉の「桜森」の舞台となったと言われている「桜の園」からの「元稲荷古墳」を経て、向日神社への参道の鳥居です。

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   桜の参道として静かな参道です、左に元稲荷古墳(勝山公園)が広がっています。

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   「向日神社御旅所」です。上植野町西小路にあります。「向日神社」の例祭の「神幸祭」ではこの地まで鳳輦や鉾など行列が氏子地域を回ってきます。

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    「神輿」が鎮座されます。

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  街道沿いの「南真経寺」(京都府文化財)です。鎌倉末期に「日像上人」の布教により村人が日蓮宗に改宗した信仰の中心です。かって天正末期(1590年)日尭が開いた鶏冠井興隆寺(かいでこうりゅうじ)と呼ばれる東西120m南北140mの広大な境内を持つ寺院でしたが、江戸初期に僧侶の学問所「壇林」を開講するため、南北両真経寺に分割されました。

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     「山門」です。

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   「開山堂」(京都府文化財)です。入母屋造りの瓦葺きの建物です。内陣には「日像上人像」と「十界曼荼羅」が安置されています。

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    「本堂」(京都府文化財)です。宝形造りの瓦葺き屋根で正徳4年(1714年)に建立されました。柱が外側に立っているのが特徴です。

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   「北真経寺」です。正式名称は、日蓮宗「鶏冠山真経寺」です。承応3年(1654年)真経寺を南北に分けて鶏冠井壇林を開き、北真経寺を学問所に、南真経寺を宗教活動の場としました。明治以降は一般の宗教活動の場となりました。山門です。

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   「本堂」(旧の講堂)です。

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      「鐘楼」です。

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    「妙見堂」です。

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    「南門」です。

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   正面に由緒の銘板が置かれています。

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   向日市鶏冠井町の西国街道沿いの「石塔寺」です。鎌倉時代末期、日像上人が向日神社前「法華題目」の石塔のそばにお堂を建てたのが始まりと伝えられています。毎年5月3日の花まつりの「鶏冠井題目踊り」は京都府の無形民俗文化財に指定されています。

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    「山門」です

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   手入れの行き届いた広い庭園の奥に「本堂」があります。

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    「鐘楼」です。

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  「石塔寺」を出て、五辻の信号から西国街道を「一文字橋」に向かうと、歴史の道として雰囲気を感じさせる石畳の道となり、街道筋らしい風致を残し保存している様子が窺えます。

  「街灯」が所々に設置され夜は燈が灯るようです。

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   街道筋の左右に往時の面影を留める民家が並んでいます。

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   虫籃窓や犬矢来のある旧家が見られます。

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  中小路家住宅(国登録文化財)です。江戸から明治時代の旧家です。

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   「中小路家住宅」です。

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向日市の南端、長岡京市に接する「一文字橋」です。橋の袂に西国街道と一文字橋のモニュメントが設置されています。

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  「一文字橋」の由来です。(京と摂津西宮を結ぶ西国街道の小畑川にかかるこの橋は、室町時代ごろから有料の橋都も伝えられる、大雨のたびに流されその架け替え費用のため通行人から一文を徴収したのが橋名の由来といわれる。)

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  橋名には「一文銭」のモニュメントが設置されています。

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 延暦年間(3年〜13年)、長岡京という都が、桓武天皇により平安京遷都までの約10年間、現在の向日市、大山崎町、などに置かれていました。            その長岡京の桓武天皇が政治を治める大極殿や、天皇の居住する内裏、など都の中心あたる場所が長岡宮として歴史的史跡として現在向日市に存在しています。 昭和29年(1954年)より2,200回にわたり発掘調査が行われています。

 

  「史跡長岡宮跡」及び「古墳群」の位置図(向日市歴史まちガイドマップより一部切取り転載しました)

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  「長岡宮跡」を簡潔に分かる、向日市教育委員会発行「長岡宮跡」のパンフレットです。長岡宮の史跡はは向日市(むこうし)の広い範囲に広がっており、その面積は東西1.1km南北1.6kmです。                    多くは発掘調査後は、各史跡場所には展示板が設置されて理解が出来るようにしてあり、現在は公園として利用されています。

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  「朝堂院公園」です。「朝堂院西第四堂跡」(ちょうどういんにしだいよんどうあと)「南門跡、翔鸞櫻跡」(なんもんあと、しょうらんろうあと) 朝堂院は現在の国会議事堂ような施設です。東西に四堂づつ計八堂からなっています。南門には楼閣が二つありました。

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  展示パネルが設置されています。

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  「大極殿公園」です。「大極殿 小安殿跡」(だいごくでん、しょうあんでんあと)です。

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    「大極殿」は瓦葺きで、礎石に朱塗りの柱が建ち、長岡宮の中でも最も立派な建物で、天皇の政務や儀式を執り行う場所でした。

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  史跡跡は公園となっており、市民の憩いの場となっているようです。

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 「朝堂院東第四堂跡」です、(ちょうどういんひがしだいよんどうあと)

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  案内板や石碑がなければ、公園にしか思えない、探すのに一苦労する場所です。

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  「かしのき公園」です。「春宮坊跡」(とうぐうぼうあと)です。皇太子の住居です。大量の木簡が出土しました。

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 「内裏公園」です。「内裏内郭築地回廊跡」(だいりないかくついじかいろうあと)です。内裏は、天皇と皇后と后たちの住まいで、現在の皇居にあたります。

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   「築地跡」(ついじあと)宮殿の境を画する大塀で、幅2.1m推定高4.5mの瓦葺きの土塀跡です。

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   長岡宮由縁の「桓武天皇皇后陵」です。寺戸町大牧にあります。

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   「淳和天皇火葬塚」です。物集女町出口にあります。桓武天皇の第七皇子の淳和天皇の火葬された場所と言われています。

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<古墳群> さして広くない向日市内ですが、京都嵐山から続く向日丘陵が南北に横たわり、その丘陵頂部に幾つかの古墳が点在しています。

 

 

  「物集女車塚古墳」(もずめくるまづかこふん)です。物集女町南条にあり、古墳時代の後期6世紀中頃につくられた前方後円墳です。丘陵を利用して全長約46mあります。横穴式石室は金銅製の冠や馬具、太刀などが副葬され、権力者の墓と考えられています。現在は公園になっています。

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  「寺戸大塚古墳」です。寺戸町芝山にあります。竹林の中にひっそりと佇んでいます。古墳時代前期(4世紀前半)の前方後円墳で、墳丘部分は長さ95m高さ9mです。埴輪が大量に出土しました。

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   この部分は古墳の後円部です。前方部は竹林として現在も利用されています。古墳垣があって中には入れません。

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  「五塚原古墳」です。寺戸町芝山にあります。古墳時代前期の前方後円墳です。特徴として前方部の形が三味線のバチに似ているのでバチ形と呼ばれ、三世紀の有力首長の古墳ではないかと言われています。古墳は全長91.2m後円部高さ8.5mあります。

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   案内図です。古墳のそばに、「大池」「はり湖池」というため池があり、水田用水として鎌倉時代から重要な役割をはたしています。また四季折々の美しい景観を利用して、現在公園として整備され利用されています。

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   右は「大池」です。「はり湖池」との間に遊歩道があり、後円墳の頂上に達することができます。

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  「はり湖山」を登っていきます。

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   後円墳の頂上です。標高69.7mの国土地理院の三角点(中央左の石柱の突起物)が設置されています。

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   勝山公園」です。「元稲荷古墳」が公園の中央にあり、向日市向日町北山にあります。三世紀末頃の前方後方墳で、前方後円墳より地位の低い人物の墓と言われ、後方部は3段築成の方形となっています。古墳は全長92m後方部幅及び長さ約50m高さ約7mとなっています。

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  古墳への階段です。

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  階段を上ると後方に長く奥行きがあるのが分かります。

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 京都市域に接する向日市。京都盆地の南西部に位置して、市域は東西約2㌔南北約4㌔と面積は77.72k㎡と全国でも3番目に小さい市です。しかし歴史的にも多くの史跡や重要文化財が多くあり、急速な都市化の中でその保存に努力されていることに、今回訪れてみて改めて認識しました。

 

 

 

 

 

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