延暦年間(3年〜13年)、長岡京という都が、桓武天皇により平安京遷都までの約10年間、現在の向日市、大山崎町、などに置かれていました。 その長岡京の桓武天皇が政治を治める大極殿や、天皇の居住する内裏、など都の中心あたる場所が長岡宮として歴史的史跡として現在向日市に存在しています。 昭和29年(1954年)より2,200回にわたり発掘調査が行われています。
「史跡長岡宮跡」及び「古墳群」の位置図(向日市歴史まちガイドマップより一部切取り転載しました)
「長岡宮跡」を簡潔に分かる、向日市教育委員会発行「長岡宮跡」のパンフレットです。長岡宮の史跡はは向日市(むこうし)の広い範囲に広がっており、その面積は東西1.1km南北1.6kmです。 多くは発掘調査後は、各史跡場所には展示板が設置されて理解が出来るようにしてあり、現在は公園として利用されています。
「朝堂院公園」です。「朝堂院西第四堂跡」(ちょうどういんにしだいよんどうあと)「南門跡、翔鸞櫻跡」(なんもんあと、しょうらんろうあと) 朝堂院は現在の国会議事堂ような施設です。東西に四堂づつ計八堂からなっています。南門には楼閣が二つありました。
展示パネルが設置されています。
「大極殿公園」です。「大極殿 小安殿跡」(だいごくでん、しょうあんでんあと)です。
「大極殿」は瓦葺きで、礎石に朱塗りの柱が建ち、長岡宮の中でも最も立派な建物で、天皇の政務や儀式を執り行う場所でした。
史跡跡は公園となっており、市民の憩いの場となっているようです。
「朝堂院東第四堂跡」です、(ちょうどういんひがしだいよんどうあと)
案内板や石碑がなければ、公園にしか思えない、探すのに一苦労する場所です。
「かしのき公園」です。「春宮坊跡」(とうぐうぼうあと)です。皇太子の住居です。大量の木簡が出土しました。
「内裏公園」です。「内裏内郭築地回廊跡」(だいりないかくついじかいろうあと)です。内裏は、天皇と皇后と后たちの住まいで、現在の皇居にあたります。
「築地跡」(ついじあと)宮殿の境を画する大塀で、幅2.1m推定高4.5mの瓦葺きの土塀跡です。
長岡宮由縁の「桓武天皇皇后陵」です。寺戸町大牧にあります。
「淳和天皇火葬塚」です。物集女町出口にあります。桓武天皇の第七皇子の淳和天皇の火葬された場所と言われています。
<古墳群> さして広くない向日市内ですが、京都嵐山から続く向日丘陵が南北に横たわり、その丘陵頂部に幾つかの古墳が点在しています。
「物集女車塚古墳」(もずめくるまづかこふん)です。物集女町南条にあり、古墳時代の後期6世紀中頃につくられた前方後円墳です。丘陵を利用して全長約46mあります。横穴式石室は金銅製の冠や馬具、太刀などが副葬され、権力者の墓と考えられています。現在は公園になっています。
「寺戸大塚古墳」です。寺戸町芝山にあります。竹林の中にひっそりと佇んでいます。古墳時代前期(4世紀前半)の前方後円墳で、墳丘部分は長さ95m高さ9mです。埴輪が大量に出土しました。
この部分は古墳の後円部です。前方部は竹林として現在も利用されています。古墳垣があって中には入れません。
「五塚原古墳」です。寺戸町芝山にあります。古墳時代前期の前方後円墳です。特徴として前方部の形が三味線のバチに似ているのでバチ形と呼ばれ、三世紀の有力首長の古墳ではないかと言われています。古墳は全長91.2m後円部高さ8.5mあります。
案内図です。古墳のそばに、「大池」「はり湖池」というため池があり、水田用水として鎌倉時代から重要な役割をはたしています。また四季折々の美しい景観を利用して、現在公園として整備され利用されています。
右は「大池」です。「はり湖池」との間に遊歩道があり、後円墳の頂上に達することができます。
「はり湖山」を登っていきます。
後円墳の頂上です。標高69.7mの国土地理院の三角点(中央左の石柱の突起物)が設置されています。
「勝山公園」です。「元稲荷古墳」が公園の中央にあり、向日市向日町北山にあります。三世紀末頃の前方後方墳で、前方後円墳より地位の低い人物の墓と言われ、後方部は3段築成の方形となっています。古墳は全長92m後方部幅及び長さ約50m高さ約7mとなっています。
古墳への階段です。
階段を上ると後方に長く奥行きがあるのが分かります。
京都市域に接する向日市。京都盆地の南西部に位置して、市域は東西約2㌔南北約4㌔と面積は77.72k㎡と全国でも3番目に小さい市です。しかし歴史的にも多くの史跡や重要文化財が多くあり、急速な都市化の中でその保存に努力されていることに、今回訪れてみて改めて認識しました。
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