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 ふと思い立ち、京都五山の送り火を翌日に控えた、8月15日早朝、大文字山から蹴上へと久し振に歩いてきました。

 

 「銀閣寺道バス停」から出発、(7時6分)哲学の道を右に白川の橋を渡り、銀閣寺へと向かいます。昼間の混雑もなく、お土産屋さんなどもまだ眠りから覚めていないようです。

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 「銀閣寺門前」です。(7時9分)この門前を左に折れて、「八神社」を正面に見て、その手前を右に銀閣寺の境内の塀添いに登って行きます。

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  やがて沢に添うようになり(7時19分)勾配もきつくなってきます。

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  (7時20分)沢に架かる橋を渡り、沢と別れ、山道に入っていきます。

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  (7時21分)

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  雑木林の広い山道を登っていきます。時折京都市街も垣間見えます。(7時28分)

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  「千人塚」です。7時32分

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 やがて急な長い石段が大文字の「火床」まで続きます。(7時35分)

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   石段を登り切ると「火床」に出てパッと視界が開け、京都市街が一望できます。道標が立っています。(7時41分)

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  「大文字の送り火」の「火床」です。(7時41分)大の火床75ヶ所 一画80m、19床 二画160m、、     29床 三画120m27床、あります。

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 「大の」交点前に立つ大師堂です。

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  「大」の字の交点にあたる特大の「火床」です。薪を井桁に組んで積み上げます。

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  「松ヶ崎方面」で送り火の「妙、法」がみえます、またその先、山の中腹に静市にある、「東北部クリーンセンター」が見えます。

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  手前から「吉田山」「京都御苑」「双ケ岡」から「老ノ坂」右の稜線は「愛宕山」です。

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  「大」の第二画のてっぺんの「火床」を通して京都市街の俯瞰です。(7時49分)

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  「大」のてっぺんから、「大文字山」の山頂を目指します。(7時52分)

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  「山中越え」への道を左に見て、右に大きく曲がって「大文字山三角点」へ向かいます。(8時3分)

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 「大文字山」、3等三角点(466m)です。ここが山頂広場です。(8時6分)

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  山頂広場から、京都市内の眺めです。「御所と二条城」が見えます。また左を見れば「将軍塚」から「山科方面」も俯瞰できます。山頂から「蹴上、南禅寺方面」に向かいます。

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  急な山道を少し下ると。4差路に出ます。「京都一周トレイル」の立派な標識が立っていて、行く道を導いてくれます。これから先は、分岐点には必ずこのトレイル標識があって、道を間違うことはないでしょう。

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  正面の道は、「池丿谷地蔵」「大津三井寺」への道です。(8時13分)

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  こちらは「蹴上」「南禅寺」へいく東山の稜線です。(8時13分)

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  しばらく行くと、急に視界が開け、稜線を立派な林道が横切っていました。しばらくぶりに歩いて、その変わりように驚きです。(8時16分)

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  ときおり樹間から「京都市街」が眺められます。(8時26分)

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  (8時32分)左、「蹴上、日向神社」と右、「南禅寺」への最初の分岐です。

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   途中、「見晴台」があり、右下隅に「平安神宮」の赤い大鳥居、疎水に架かる「赤い橋」も、。正面の高い建物は「京都ホテルオークラ」、その左、「御池通り」の幹線が、右上は「二条城」の森が少し見えます。(8時36分)

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 左、「日ノ岡、山科方面」へ、右は「蹴上、南禅寺方面」です。(8時38分)

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  「山科盆地」が一望できます。「日ノ岡、御陵」方面です。(8時44分)

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  「山科盆地」、東海道新幹線の高架が見えます。左は「音羽山から醍醐方面」です。

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  (8時51分)「七福思案処」に着きました。「南禅寺」「日向大神宮2コース」「御陵」など、どこを下山路にしようか迷うところです。

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  「日向大神宮」への石段を下っていきます。(9時1分)

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  「日向大神宮」へ到着です。(9時3分)

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  「日向大神宮」を過ぎると民家が現れます。(9時5分)

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  やがて「蹴上インクライン」、橋を渡ると「国道一号線」の車の騒音が聞こえてきます。(9時9分)

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  「国道一号線」に面した「日向大神宮」の一の鳥居です。(9時12分)

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  目の前の京都市営地下鉄「蹴上駅」に(9時13分)無事到着しました。

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五条坂「陶器まつり」

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 京都の夏の風物詩として名高い恒例の五条坂の「陶器まつり」。始まりは大正9年、清水焼発祥の地、五条坂に店を構える陶器店が、大谷本廟、六道珍皇寺へのお盆のお参りの人々を目当てに、一年に一度のバーゲンを始めたのが始まりです。その後、全国の窯元や卸店など400店が参加して、我が国最大規模の陶器まつりとして毎年8月7日から10日まで、多くの人に親しまれ賑わっています。特に最近では、若い陶芸家が南側歩道に意欲的な作品を展示しています。

 

 「陶器まつり」の西ノ端は、まず鴨川に架かる五条大橋を渡った京阪五条駅から始まります。

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  「京阪清水五条駅」から東に延びる五条通り幹線を挟んで「北側」と「南側」に出店をしています。テントの屋台が並んでいるのが見えます。

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  五条通りを東山に向って歩くと「大和大路通り」の角に道標が立っています。

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   陶器店が建ち並ぶ店舗と出店が、左右に所狭しと続きます。売り手と買い手の陶器に関する蘊蓄や、値段交渉はそばで聞いていても楽しいものです。

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   「五条坂」のほぼ中央に「若宮八幡宮」があります。別名「陶器神社」と呼ばれています。創建は天喜元年(1053年)後冷泉天皇の勅願によって、源頼義が勧請したといわれています。

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   長い石畳の参道が続いています。その参道に「京都造形芸術大学」の学生さんによる「戦後70周年×琳派400周年」をテーマに、地元の窯元さんたちが提供した陶器を使用し、陶器人形の展示が行われています。

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   「風神」像です。touki13.JPG

 

  「雷神」像です。

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  「ハレ神」像です。 (怒り悲しみそして希望)と銘うってあります。

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  「自転車妖怪」です。 (捨て置いて新たな二輪に不倫する)と表示されています。

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  「二の鳥居」を潜ると正面に「本殿」が見えます。

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  「本殿」です。照応3年(1654年)の建立で、八幡三神を始めとし、陶祖神 椎根津彦命が祀られています。

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  「蓬莱石」です。本殿の片隅に埋もれていたものを、650年ぶりに世に出された、御神威あらたかな石といわれています。

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  「鍾馗神社」です。古くから京都の町家の玄関庇の上に、守り神として置かれている鍾馗さん。今はだいぶ少なくなっていますが、まだ街中のあちこちに見られます。

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   「区民の誇りの木」「クスノキ」の大木です。

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   本殿横の「庭園」です。東門に通じています。

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   「若宮八幡宮」を出て「東山通り」に向かいます。「清水寺」に近く、多くの観光客も訪れています。

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   「東山通り」に出てきました。

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   「東山通」を隔てて「大谷本廟」が大きく広がります。

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早朝の「清水寺」

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 京都の数多い社寺の中でも、訪れる観光客の一番の人気の清水寺、その清水の舞台を目指して訪れる多くの観光客の混雑を避けて、早朝にお参りしてきました。

 清水寺は山号を音羽山といい、音羽山より今もなお途切れることなく湧き出でる音羽の滝から、清水寺という寺名がつけられました。ご本尊は千手観音で、開基は延鎮で、北法相宗大本山です。また西国三十三ヶ所観音霊場の第16番札所です。

 

 「清水寺」(きよみずでら)への参道です。昼間は大混雑の参道も、未だ眠りから覚めていません。

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  参道から見下ろす「三年坂」です。

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  参道から順路に従って伽藍を順次お参りしていきます。

 「馬駐」(うまとどめ)(重要文化財)です。参道を進んで最初に目に入る馬駐です。かって貴族や武士は、ここに馬を繋いで諸堂を参拝しました。応仁の乱後に再建されたものです。

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  左、「仁王門」 右「西門」と「三重塔」です。参道正面に威容を誇る仁王門と、右奥に西門と三重塔が見えます。

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  「仁王門」(重要文化財)です。応仁の乱で焼失しましたが、その後再建されました。清水寺の正門で、幅約10m、奥行約5m、棟髙約14メートルで、鮮やかな朱塗りから「赤門」とも呼ばれています。

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  「仁王門」の左の「狛犬」です、よく見ると、左右とも狛犬の口が開口した阿形(あぎょう)となって珍しいものです。一般的には口を閉じた吽形(うぎょう)と一対をしています。

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   右のこちらも開口した阿形の「狛犬」です。

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  「西門」(さいもん)(重要文化財)です。嘉永8年(1631年)再建されたもので、現在立ち入ることは出来ません。

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  「鐘楼」(重要文化財)です。慶長12年(1607年)再建です。

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  「本堂」への参道です。

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  「三重塔」(重要文化財)です。豪華絢爛な建築美をみせている三重塔で、嘉永9年(1632年)に再建されました。内部に大日如来像をお祀りし、三重塔としては、日本最大級の高さ約31mとあり、清水寺のシンボルとして国内外に広く知られています。

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   「三重塔」の水の神様、火難除けの「龍神の鬼瓦」です。

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  「随求堂」(ずいぐどう)塔頭慈心院の本堂です。享保3年(1718年)の再建です。衆生の願い、求めに随って叶えてくれるという大随求菩薩をお祀りしています。

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  「経堂」(きょうどう)(重要文化財)です。嘉永10年(1633年)の再建で、堂内には釈迦三尊像をお祀りしています。

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   「経堂」と「三重塔」が朝日に美しく映えます。

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開山堂(かいさんどう)(重要文化財)です。嘉永10年(1633年)の再建で、謡曲「田村」に謳われている「田村堂」とはこのお堂のことです。 清水寺創建の坂上田村麻呂公夫妻の像などが納められています。

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  「開山堂」の次は「轟門」ですが、現在解体修理中です。

  そして「朝倉堂」(あさくらどう)(重要文化財)となります。朝倉堂は、洛陽三十三所観音霊場第十三番札所です。越前の守護大名朝倉貞景の寄進により、法華三昧堂として永正7年(1510年)に創建され、寛永10年(1633年)に再建されました。堂内には、千手観音ら三尊像がお祀りされています。お堂の東側に、なでると足腰に効くといわれている「仏足石」が置かれていましたが、現在囲いがあって、ご利益を戴くことができません。

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  「朝倉堂」過ぎると「本堂」、「外陣」と「回廊」となります。

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  「外陣」の入口左側には「錫杖と高下駄」が据えられています。重さ90キロ以上の大錫杖と、14キロの小錫杖、そして12キロの高下駄です。明治中期吉野で修行した修験者から奉納されたものです。

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  「本堂外陣」の「出世大黒天像」です。大きな黒頭巾と左肩に宝物袋、右手に打出の小槌を持ち、ニコニコ顔で米俵を踏んでいます。

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  「本堂外陣」から「舞台」と東山の風景です。

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  「本堂」(国宝)です。ご本尊十一面千手観音と勝軍地蔵菩薩、毘沙門天をお祀りしています。寛永10年(1633年)に再建され、正面36m強、側面約30m、棟髙18mの大堂です。

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  「本堂」の「回廊」と「外陣」を見ています。

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  「清水の舞台」です。昼間の混雑が嘘のような独り占めの早朝の舞台です。錦雲渓の急な崖に、最長約12mの巨大なけやきの柱を並べ、「縣造り」という手法で、釘を一本も使わずに組み上げた木造建築です。面積は約190㎡、410枚以上のヒノキ板を敷き詰めた「桧舞台」です。ここから東山方面を見ると、解体修理中の「阿弥陀堂」と「奥の院」が見えます。

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  「舞台」から、西方、京都市内方向を眺めています。

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   「舞台」から南方向を見ると「子安塔」の鮮やかな朱色が緑の中に映えます。

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  京都市内も眼下に望めます。

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  「本堂」を出て、進むと音羽山を背に「地蔵堂」「釈迦堂」「阿弥陀堂」「奥の院」とならんで建っています。「釈迦堂」と「奥の院」は現在解体修理中で立ち入ることは出来ません。この祠は「地蔵堂」です。

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  「釈迦堂(重要文化財)です。豪雨で倒壊し、昭和47年(1972年)に嘉永8年(1631年)の再建時の姿に復旧されました。釈迦三尊をお祀りしています。

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  「釈迦堂」から見た「本堂と舞台」です。

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  「奥の院」からみた「本堂と舞台」です。

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  「子安塔」から「音羽の滝」へお参りする順路です。

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   「子安塔」(重要文化財)です。丁度、本堂から真南に相対して建っています。「子安塔」は聖武天皇、孝明皇后の祈願所と伝えられていますが、現在の建物は、明応9年(1500年)のものです。子安観音をお祀りしています。

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  「泰産寺」です。塔のふもとにあり、塔を守護するための寺院で、洛陽三十三所観音霊場の第十四番札所として信仰を集めています。

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  「子安塔」から参拝路を降りていくと「音羽の滝」があります。清水寺の開創の起源で、寺名の由来となったのがこの滝です。こんこんと流れ出る清水は、「黄金水」「延命水」と呼ばれ、清めの水として尊ばれてきました。3筋に分かれて落ちる清水を柄杓に汲み、「六根清浄」「所願成就」を祈願するため、常に行列ができる人気の場所ですが、今は静かな一時です。

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   「音羽の滝」から「舞台」を見上げています。

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  「舞台」を見上げながら緑濃い順路を仁王門方面へと、もときた場所へと戻ります。見上げると「経堂」や「三重塔」が木の間から見え隠れします。

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  小振りな庭園も設えてあります。

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   道標も建っています。ようやく仁王門まで戻ってきました。ここからあまり観光客も立寄らない諸堂に立寄ります。

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  まず正面山門前参道の左、「大講堂」や「成就院」への参道脇に「善光寺堂」があります。洛陽三十三所観音霊場第十番札所です。鎌倉時代末期作の如意輪観音坐像などがお祀りされています。善光寺堂の右に見えるのが「首ふり地蔵」です。

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  「首ふり地蔵」です。このお地蔵さまは、首がぐるりと動かせるという珍しいお地蔵さまで、自分が恋い想う人の住む方向に首を向けて、祈願すると想いが叶うといわれています。

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   「大講堂」です。清水寺開創1200年の記念事業として、昭和59年(1984年)に、観音信仰の道場、国際親善、文化交流の場として建てられました。

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   「北総門」(重要文化財)です。嘉永8年から16年に再建された、間口4.12mの薬医門です。かっては、塔頭の成就院の正門として使用されていた、重厚な造りの門です。正面に見えるのは、幕末に散った勤王僧 月照・信海両上人と西郷隆盛公の「歌詩碑群」です。

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   「千体石仏群」です。「成就院」参道の右手に、地蔵菩薩、観音菩薩、阿弥陀如来、大日如来、釈迦如来など、様々な石仏が所狭しと立ち並んでいます。その一体一体に、色とりどりの前垂れが、有志のかたがたによって掛けられています。

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   「中興堂」です。清水寺の中興開山、大西良慶和上の御霊屋(おたまや)です。良慶和上は、大正3年(1914年)から約70年にわたって清水寺住職を務められて、廃仏毀釈などによって衰退していた清水寺を現在の形に復興され、昭和58年、107歳で天寿を全うされました。その偉業を讃え、平成9年(1997年)に落慶されました。

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  大西良慶和上の白寿を記念して揮毫していただいた色紙です。

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  「成就院」(じょうじゅいん)清水寺本坊塔頭です。見事な庭園や、襖絵の数々があることでよく知られています。期間を限って特別公開されます。

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      (各説明文は清水寺のホームページより引用させていただきました。)

 

 

 

 京都「ゑびす神社」は西宮・大阪今宮神社と並んで日本三大ゑびすと称され「えべっさん」の名で親しまれています。その起源は約800年前土御門天皇の建仁2年(1202年)に、禅の祖といわれる栄西禅師が建仁寺建立にあたり、その鎮守として最初に建てられたものです。御祭神は八大言代主大神、大国主大神、少彦名神です。(ゑびす神社由緒より)また、七福神の内の一人、恵比寿が祀られ、商売繁盛の笹が有名ですが、笹は縁起物の松竹梅の竹の葉で「節目正しく真直ぐに伸び、弾力があり折れず、常に青々と繁る」といった特徴から家運隆盛、商売繁盛の印となりました。

 

  「ゑびす大祭」(初ゑびす)のポスターです。

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  神社前の通り、「大和大路通」りの賑わいです。

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  参拝者で賑わう「一の鳥居」です。

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  鳥居を潜ると縁起物を売る露店が並んでいます、縁起物の「人気笠」がぶら下がっています。

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  「福笹奉納の舞い」です。授与される笹は巫女さんによるお祓いの奉納舞の後、授与されます。

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   お祓いを受けた福笹を求めるお参りの人々です。

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  いろいろな「海の幸」や「山の幸」などの縁起物が並んでいます。鯛、のしあわび、米俵、打出の小槌、扇、鈴、大福帳、大判、小判、熊手、宝船など多種多様です。

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  「福笹」に付ける縁起物「吉兆」を求める人たちです。

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  「本殿」です。

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  「本殿正面」です。「まぐろ」が神前に奉納されています。

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  「宝印」を授かる人々です。

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   境内の「天満宮」です。

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   境内にお祀りしてある「白太夫社」です。ebe20.JPG

 

  「ゑびすさんの石像」です。

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   「普段のゑびす神社」の風景です。

  

  「大和大路通り」に面した一の鳥居です。

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  参道を進むと「二の鳥居」です。右にはゑびすさまや財布塚、名刺塚などが並んでいます。ebe26.JPG

 

   静かな佇まいを見せる「本殿」です。

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  「本殿左横」です。まっすぐ進むと「裏門」にでます。

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  本殿横の「たたき板」です。ゑびすさんはお年寄りの神様で、ちょっと耳が遠いので、本殿奥の神様が鎮座される横の壁板を叩いて、「お参りに来ましたえ」とお参りに来た事を念を押してお知らせするものです。

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   「天満宮」です。

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   左、「財布塚」 右 「名刺塚」です。

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  ここにも「ゑびすさん」がおられます。

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  立派な「裏門」です。

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 「初ゑびす」には多くの参詣者で賑わいます。アベノミクスの恩恵をまだ授からない多くの企業経営者や庶民に、どうか「えべっさん」「よろしゅうおたのもうします」。

 

 

 

 

「河井寛次郎記念館」

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 柳宗悦、濱田庄司、と共に民芸運動を興し、その名を知られる河井寛次郎、日常に使用する身近なものの中にその美を求め、その心や形を大切にされました、文化勲章や人間国宝、芸術会員などを辞退し、生涯を無位無冠の陶工として、76歳でその生涯を閉じた、河井寛次郎の記念館にお邪魔してきました。

 その記念館は、東山五条の細い図子を南に入ったところにあります。室戸台風で自宅が全壊した後、昭和12年に建築されたもので、寛次郎の自宅兼工房として登り釜と共に大切に保存され、その日常と、置かれている調度品や作品から、その精神を感じ取ることができるようになっています。

 

  入館の際のパンフレットです。表紙は氏の自筆で竃(かまど、へっつい)の書と思われます。

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  前の道路は、車が一台通れるかどうかの細い道で図子と呼ばれるものでしょう。「犬矢来」と「格子」そして「塗壁」と京都の町家に近い外観を見せています。ただ、京町家特有の「ウナギの寝床」でなく間口は広くなっています。

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  「玄関」を入ると通り庭となっていて、上り框のある玄関になっています。

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  玄関の奥には応接に使用したと思われる和室があります。現在事務室です。

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  奥まで「通り庭」なっています。昔は作事方や、物資の運搬、汲取り便所のために通路が必要だったのでしょう。

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   「受付」です。戸棚を始め調度品の数々にも歴史が感じらます。

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   「炉」には自在鉤もかけてあります。また日常に使用する、陶器などがさりげなく置かれています。

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  中庭に面した「居間」の一部です。

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  2階に上がる、「箱階段」です。階段下の収納スペースが重宝します。急な階段になっています。昔、私の住んでいた住宅も箱階段でした、急なため、よく階段から転げ落ちました。

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   2階の「踊り場」です。 

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   「2階廊下」です。

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  氏が使用され愛された椅子など、自由に座って寛ぐことができます。

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   2階「居間」と床の間つきの「部屋」(上段の間)です。

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  「上段の間」です。

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   「茶室」の入口です。

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  「陶房」から中庭を通して「お母屋」を見ています。

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 中庭に面した「陶房」 です。入口には「猫石像」が置かれています。

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   中庭の「サザンカ」が彩りを添えています。 

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  左、「陶房」と、右、「作品展示室」です。

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  「陶房内部」です。

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  「素焼窯」です。乾燥された粘土の段階の作品は、この窯に入れられ、600℃から700℃で8時間前後松割り木で焼かれ素焼の状態にします。(説明文より)

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  「登り窯」です。この窯は昔築かれたものを、寛次郎が譲り受け、「鐘渓窯」と名づけられていました。素焼された作品は、釉薬をかけた後、この窯に入れられ、火度1350℃程度で焼かれました。火は二昼夜にわたって、前の室から後ろの室へと燃やされ、このために約2000束の松割り木を必要としました。(説明文より)

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  「焚き口」です。

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  斜面に連続して「焼成室」が複数に連なっています。故に登り窯と言われています。

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  「焼成室」の内部です。

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  「焼成室」の入口を塞いだ状態を表しています。

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  「色見孔」です。焼成室の内部の状態を見るための孔です。

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 河井寛次郎さんの生前の日常の姿を想像出来るような、生活の場をありのまま公開されているのに感動を覚えます。また近年、京都市内でも珍しくなった、登り窯を見学出来るのは貴重なことです。

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