山科疏水沿いの桜が美しく咲き誇っていると聞き、早速出掛けてきました。疏水沿いの遊歩道を歩きながら、所々に設置されている説明板を読みながら琵琶湖疏水についてもっと知りたいと興味がわき、なんどか足を運びましたが、その拙い報告です。
さて、京都市民の命の水を運んでくれている琵琶湖疏水、その恩恵を昔から当たり前のように享受してきたことに遅まきながら反省し、先人の偉業を偲びつつ、琵琶湖からの水の流れをたどってみました。
京都市上下水道局発行の冊子を頂き、お話をお聞きしながら、ただ水を運んでいるだけでなく、京都の産業はもちろん日本の近代化の発展に欠かせない寄与をしてきたことを改めて深く感じました。
琵琶湖疏水は第1疏水と第2疏水に分かれています。
私達に美しい景観を与えてくれている、馴染の第1疏水は琵琶湖取水口から伏見区堀詰町まで約20キロとなっています。
特に明治時代の偉大な遺産と言われている、琵琶湖取水口から鴨川合流点までは延長19,968mで、明治18年6月に着工し、明治23年3月に完成しました。
その後、疏水分線や第2疏水などが計画され明治時代に完成をみています。
第2疏水は、琵琶湖取水口から蹴上まですべてトンネルで通水され、蹴上で第1疏水と合流して、私達の目に触れることはありません。
この疏水を計画したのは、北垣国道京都府知事、工事を担当したのは大学を卒業したばかりの21才の田辺朔郎でした。
紆余曲折のうちに、着工にこぎ着けたのは当時の知事であり、後押しをした京都の市民の力でしょう、工事担当者に若い田辺朔郎を起用した大英断など、驚く他ありません。
この難工事を、日本の技術で、日本人の手で成し遂げた最初の工事として、忘れてはならないと思います。
そして、明治の先人たちの西欧列強に、追付け追越せという気概に、学ぶべきことは多いと思います。
京都市上下水道局発行の冊子です。
疏水の平面図と碑などの位置図です(冊子より転載しました)
疏水の断面図です。(冊子より転載しました)
第1疏水の琵琶湖取水口(大津市三保ケ崎、観音寺)に隣接している第2疏水取水口です。
取水口は、国道161号の橋を跨いで大きく広がっています。
これが第2疏水のトンネル手前の制水門でここからトンネルに入っていきます。
この第2疏水は蹴上までトンネルで通水されて、地上には姿を現しません。
第2疏水、制水門です。
第1疏水の始まりです。
琵琶湖第一疏水の水を取り入れるための、大津市三保ケ崎、観音寺の始点です。明治19年2月着工です。
国道161号線や、京津電車の鉄橋下を通り、疏水の流れが始まります。
まっすぐに長等山に向って流れて行きます。
琵琶湖疏水の大津分署です。
「大津閘門」明治22年10月完成(左)と大津分署(右)です。
第一疏水、第一トンネル東口(大津側)に向かいます。
第一疏水、第一トンネル東口(大津市側)です。
全長2,436m 明治23年2月完成しました。
第1トンネル東口の上部の洞門石額です。
「気象満千」(きしょうばんせん) 伊藤博文 筆
千変万化する気象と風景の変化はすばらしい(宋・岳陽樓記の一節)
長等山を貫く第1トンネル(2,436m 明治19年2月着工 明治23年2月完成)は、当時日本最長のトンネルとして計画され、完成を疑問視されたのですが、トンネル入口の東西から横穴を掘る工法に加え、山の上から2ヶ所で垂直に穴を掘る竪坑方式という画期的な工法を採用し完成しました。
長等山への小関越えの途中にある第2竪坑です。記念の遺跡として最近整備されてフエンス越しに眺めることができます。
第1トンネルを抜けてトンネル西口(京都藤尾側)です。
第1トンネル西口上部に彫込まれた洞門石額です。
「廊其有容」(かくとしてそれかたちあり) 山縣有朋 筆
悠久の水をたたえ、悠然とした疏水のひろがりは、大きな人間の器量をあらわしている。
トンネル西口を出て、四ノ宮方面に向かいます。
藤尾緊急遮断ゲートです。
地震などの災害時に自動で閉鎖します。
重箱ダムと諸羽トンネルに向っています。
四ノ宮、一灯園を通って、水は滔々と流れていきます。
重箱ダムと諸羽トンネル東口です。
諸羽トンネルは、国鉄湖西線開通により新設されました、全長520m 昭和45年5月完成です。
諸羽トンネル西口です。
諸羽トンネル西口と諸羽ダムです。
山科盆地の北の山裾に向っていきます。
毘沙門さんへの安朱橋を通ります。
桜と菜の花が美しいところで、いつも人の通りの絶えないところです。
山科疏水として、川沿いの遊歩道を朝早くから散歩の人々が挨拶を交わしています。
この辺り、山沿いを大きく蛇行して第2トンネルへと向っています。
やがて永與寺への赤い橋が見えてきます。
琵琶湖疎水(2)に続きます
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