2014年1月アーカイブ

 京都市学校歴史博物館で「青春と学校生活 戦後京都の中学、高校生活」、が特別展として開かれているので興味を惹かれて訪れました。

 この歴史博物館は、開智小学校の元校舎を利用して開設されたものです。

 常設展示室は、いかに京都の町衆が自分たちの手で各学区に学校を開校していったか、幕末に始まって京都の学校の成立ちを、そして戦後の変遷を系統立てて、パネルや展示物で説明し、構成されています。
 また、教科書の部屋が併設されていて、教科書で見る明治から戦後までの歴史を展示しています。
 あまり禁止の意味は無いと思いますが、なぜか館内はすべて、写真撮影は禁止されており、内容をお伝え出来ないのが残念です。



 入館のパンフレットです。
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 入口です。学校の正門ををそのまま使用しています。いかにも京都の学校らしい趣を残しています。
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 入館口です。元成徳小学校の玄関(国登録有形文化財)を移築したものです。
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 尚徳中学校に置かれていた、二宮金次郎像です。
 昔はどこの学校の正門のそばには必ずありました。
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 特別企画展です。戦後の中学、高校の学校生活をパネル写真と備品などで展示し、学校生活の変遷を感じとれるようになっています。

 思い出せば、僕たちの国民学校時代は、軍国教育一辺倒で、意味を理解できないまま、「朕フニ我カ皇祖皇宗」と「教育勅語」を丸暗記させられ、また「じんむ すいぜい あんねい いとくーーーーーめいじ たいしょう きんじょう」「神武 綏靖 安寧 懿徳ーーーー明治 大正 今上」歴代天皇124代の名前を全部暗記して、言えなかったら学校から帰宅させてもらえないような時代を、4年生の夏の敗戦まで過しました。
 教育とは恐ろしいもので、直近のことをなかなか思い出せなくても、小学生で覚えさせられた「教育勅語」や「歴代天皇名」などが、すらすらと口をついて出るのには驚きです。
 昭和20年の敗戦を境に「撃チテシ止マム」「鬼畜米英」と声高に叫んでいた先生たちが、急に「米国礼賛」を言いだしたのには、子供心にも呆気にとられたことを思い出します。
 敗戦後は戦災孤児たちが巷に溢れ、殺伐で深刻な飢餓状態が続き、「青春と学校生活」と言う言葉から受ける「活気に満ちあふれ」「甘いような」また「ほろ苦いような」感触とはほど遠い、暗くて残酷なものでした。
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 教科書展示室には、拡大複製した僕たちが使用していた教科書が展示されていましたが、僕が所持している復刻版から、内容の一端を知って頂ければ幸いと思い、転載いたしました。

 僕が国民学校(小学校)1年生で習った国語の教科書の復刻版を転載したものです。表紙は少し変わっています。(この復刻版は版昭和45年に池田書店から発行されました。)
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 最初のページです。
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  次のページです。
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 同じく国民学校1年生の修身の教科書の復刻版から転載しました。(この復刻版は昭和45年にノーベル書房から発行されました。)
 表紙は破れてありませんが、まず最初のページには、皇居二重橋を天皇陛下が隊列を組んで出発して行進する絵です。
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 同じく修身の教科書の中ほどには、イソップ童話の狼少年の話しで「狼が来たと、たびたび人をだました子供が、本当に狼が出てきた時には、誰も助けにきてくれなかった」と教えています。
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 同じく1年生の修身の教科書の終わりには、突撃ラッパを吹く木口小平が、有名な「テキ ノ タマニ アタリマシタガ、シンデ モ、ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ。」と日本陸軍兵士の英雄として、教えられました。
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東寺の「初弘法市」

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  京都の街中で、「教王護国寺は何処ですか」と尋ねても、多くの人はキョトンとした顔をされるかもしれません。でも、「東寺さんは何処ですか」と聞けば、すぐにだれでも教えてくれるほど身近なお寺で、昔から通称が「金閣寺」や「銀閣寺」と共に、世間一般に広く認知されているお寺です。

 「東寺」。正式名称 教王護国寺(きょうおうごごくじ)です。
 東寺真言宗の総本山で、平安京造営の際、国家鎮護のために創建され、唯一残る平安京の遺構です。
 その後、弘法大師空海に託され、密教寺院として誕生しました。

 縁日は弘法大師の命日である、3月21日の御影供の参拝者を目当てに、露店が立ち並ぶようになり「弘法さん」と親しまれて、毎月開かれるようになりました。
 特に12月の「終い弘法」、新年の「初弘法」は大勢の善男善女が詰め掛けて大賑わいをみせます。

 今年の初弘法はお天気も良く暖かい日和で、僕も出掛けてきました。
 初弘法の時の賑わいのスナップ写真です。


 
 南大門付近です。
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 「東門」です。ここから出入りする人が一番多いようです。
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 「北大門」から入って正面が食堂です。
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 どこもかしこも大混雑、人波に揉まれて、押すな押すなの大盛況です。

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 ありとあらゆる露店が軒を連ねています。ちょっと一息です。
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 食堂です、お参りする人々で近寄れません。
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 五重塔も今日ばかりは人出の熱気に圧倒されて霞んで見えるようです。
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 春を待ちかねるように、色とりどりの花がお客さんを待っています。
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 今年の新年にお参りした時の、普段の静かな東寺さんを少しご紹介します。


 九条通りの美しい土塀です。縁日の日は、露店や人波の陰に隠れて見えません。
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 南大門(なんだいもん重要文化財)です。この門が正門になっています。
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 この南大門から北に向かってまっすぐ一直線に、金堂(こんどう) 講堂(こうどう) 食堂(じきどう) と大伽藍が並んでいます。
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 南大門を入って正面に金堂が建っています。
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 「修業大師像」です。 弘法大師の修業時代の像です。南大門のすぐそばにあります。常にお花が供えられて信心の深さを感じます。
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 金堂(国宝)です。関ヶ原の合戦後に落慶した、桃山時代の代表的な建物です。
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 講堂(重要文化財)です。
 寺域の中心で、大日如来が安置されています。
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 食堂です。観音堂とも呼ばれています。 
 巡礼者の祈りの場となる納経所ともなっています。
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 御影堂(みえいどう)入口です。
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 御影堂(大師堂)国宝です。
 弘法大師のお住まいだった場所です。

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 毘沙門堂入口です。
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 都七福神 兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)をお祀りしています。
 御影堂のすぐそばにあります。
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 南大門を入って右を見ると境内の東南に五重塔が見えます。
 JRの電車が京都駅に近づくと最初に見えるのがこの五重の塔と京都タワーでしょう。
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 五重塔(国宝)です。高さ約55m 寛永21年(1644年)に再建された日本で一番高い五重塔です。
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 「鐘楼」です。足利尊氏寄進の鐘で毎朝、東寺の開門を告げてきた鐘ですが、傷みが激しく宝物館に保管され、新しく同じように鋳造されました。
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 東大門(不開門)です。
 建久9年(1198年)の再建です。
 足利尊氏が門を閉め、危うく難を逃れたという故事により、「あかずのもん」と呼ばれるという。
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 境内の東側一帯に庭が広がっています。
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 池畔からの五重塔です。
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 普段、機関車庫(扇形車庫)に収まっている蒸気機関車が、機関車庫から頭出しをしているとの話しを聞き、久し振に梅小路の「蒸気機関車館」に出かけてきました。
 
 乗り物に乗ったり、見たりすることは幾つになっても、子供の頃と同じ興奮を覚えます。
 特に蒸気機関車の勇姿には惚れ惚れします。小さい頃はレールに耳を押し付けて、近づいてくる列車の音の響きにわくわくしたものです。
 のんびりした時代が懐かしいです。
 
 
 案内パンフレットです。

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 蒸気機関車館の入口です、
 国鉄山陰線(現JR嵯峨野線)の二条駅の旧駅舎(有形文化財)を1997年(平成9年)山陰線の高架化に伴い、移築したものです。
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 改札口に至る入口です。
 中へ入ると、駅舎を利用して物品販売や、資料館となっています。
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 扇形に湾曲した機関車庫です。「扇形車庫」(重要文化財)と呼ばれています。
 20線の留置線があり。保存機関車の展示場や機関車の検査、修繕を行う作業場でもあります。
 車庫から機関車の頭部が出ていて、ヘッドマークを付け、頭出しと言われています。
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 D51形1号機」です。愛称(デゴイチ)と呼ばれ、機関車の代名詞にもなっています。
 1936年(昭和11年)に1号機が製造され、僕の生まれ年と同じで特に愛着があります。
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 「C61型2号機」です。大型の旅客用の機関車です。デゴイチの物を一部流用して製造されています。
 動態保存されていて、まるで生き物のように、白い蒸気を吐き出していました。
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 「C53形45機」です。大型の旅客用機関車です。
 ヘッド部分が、ちょっと変わって面白くて好きです。
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 D51形200号機です。動態保存されています。
 見るからに精悍そのものです。
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 C55形1号機です。
 62両と製造が少数なため、残っているのは4両のみということです。
 その記念すべき1号機がこの梅小路に保存されています。
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 C62形1号機です。通称(シロクニ)と呼ばれています。
 山陽本線の「かもめ」や「あさかぜ」などを牽引していました。
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 「1070形1080号機」です。
 イギリスで製造された機関車です。
 可愛らしい姿で、長い煙突が印象的です。各地の鉱山で活躍していました。日鉄鉱業から寄贈されたそうです。
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 C57形1号機」です。1937年(昭和12年)の製造です。動態保存されています。
 美しい姿から通称「貴婦人」と呼ばれて、多くのファンを集めています。
 今回は残念ながら、点検中なのかその後ろ姿だけしか見る事ができませんでした。
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 扇形車庫の内部を俯瞰しています。
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 扇形車庫の後部はこのように広く、作業が可能なようになっています。
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 この梅小路では一日3回、蒸気機関車の運転が行われ、誰でも乗車することが出来ます。
 乗車ホームに停車中です。
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 「C622形の2号機」です。動態保存されていて、乗客を乗せていつでも出発、進行出来るようになっています。
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 C622形の2号機です。近くで撮影しました。
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 留置引込み線と転車台を通して、はるかにC622蒸気機関車が見えます。
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 反対側、転車台を通して扇形車庫を見ています。
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 各列車の動輪の実物を展示しています。一番手前は新幹線0系電車です。
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 移築した二条駅舎の展示室では、写真のように古い駅務室を再現したり、戦後の国鉄時代の歴史のパネル展示をしていました。
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 (付録)
 2011年、寸又峡温泉への旅で乗車した、大井川鉄道 千頭駅での「C11蒸気機関車」です。
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 同上の運転室です。
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 1月10日は年の初めに商売繁盛を祈願する「十日恵比寿」の日。
 神戸に所用で出掛けた機会に、例年テレビ等で放映される、午前六時の開門を合図に参道を走り抜ける、福男選びで有名な「西宮神社」に立ち寄りました。


 阪神電車西宮駅を下車すると、さすがに大変な混雑です、駅員さんがハンドマイクで参拝客を誘導しています。
 押されるように駅を出ると、神社まで歩行者天国になっています。
 お参りは一方通行で、入口、出口は決まっています。


 鳥居を潜って、表大門に向かいます。
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 大太鼓の合図で一斉に開かれる、表大門(赤門)です。
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 参道両側には、鯛焼きや、たこやき等、食べ物などの店に混ざり、十日恵比寿独特の露店などが立ち並んでいます。
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 熊手やお多福など吉兆の飾物を求める参拝客と、呼び込みの威勢の良い掛声が聞こえます。
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 参道左側には庭園があります。
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 拝殿です
 拝殿を順番に進み、お祓いを受け、御本殿に向かいます。
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 拝殿左右には、神官の方が参拝者のお祓いをしています。
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 御本殿です。
 凄い数の参拝者が列をなしています。
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 本殿前のお参りの人々です。
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 青銅製の馬の像が、拝殿左右に参拝者を迎えていました。
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 押し出されるように、出口へと向かいました。
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 せっかくお参りに来たので、もう少しゆっくりと、えびすの森や庭園など、境内を廻りたかったのですが、残念ながら、大変な人出で身動きならず諦めました。



伏見「五福めぐり」

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 お正月の初詣でを兼ねて、京都伏見の縁の社寺で構成されている「五福めぐり」をしてきました。
 どの社寺も多くの参詣者で賑わっていました。

 
 案内ポスターです。
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  まず、京阪丹波橋駅西方にある「大黒寺」(だいこくじ)です。こぢんまりしたお寺ですが、真言宗のお寺で空海の開祖と言われています。
 江戸時代、近くに薩摩藩邸があり、島津家の」守り本尊「出世大黒天」が祀られていたことから薩摩藩の祈願所と定められ、通称「薩摩寺」とも呼ばれる由緒あるお寺です。
 
 入口の門ですが、右に別の大きな出入口があります。
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 門の屋根瓦には四方の隅瓦に、ふくよかな大黒さんの瓦が、そして巴瓦には薩摩藩の紋が入っています。
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 本堂です。
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 本堂の左には、天明5年伏見奉行の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救った、文殊久助を始め7人を伏見義民として祀っています。
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 本堂の裏は墓地となっていて、幕末、伏見寺田屋事件で犠牲となった、有馬新七ら九烈士のお墓があります。
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 続いて、中書島の濠川沿いにある、「長建寺」(ちょうけんじ)(正式には辧財天長建寺)通称は島の弁天さんで、ご本尊が八瞥弁財天です。
 元禄12年(1699年)大亀谷より現在地に移築したものです。
 
 朱色の竜宮造りの門と土塀が印象的です。
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 本堂です。
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 鐘楼です。昔は船や町の人々に、時をを知らしていました。
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 長建寺の前の濠川です。
 昔は伏見から淀川への三十石船の発着場がこの場所にありました。現在も観光船十石船ののりばになっています。
 川沿いには、大倉酒造月桂冠の酒蔵が続いています。
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 桃山御陵近くの「乃木神社」(のぎじんじゃ)です。
 名前の通り、明治天皇の崩御の際、殉死した乃木将軍を祀っています。
 
 神門です。
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 拝殿です。
 拝殿前右には、乃木将軍、愛馬の像があります。
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 乃木将軍が幼少の頃、生活した、長府の旧家が再現されています。
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 「山城えびす神社」です。
 乃木神社拝殿の右一角にえびす様を祀っています。珍しいことに神前には狛犬に替わって、大鯛が鎮座しています。
 商売繁盛、家内安全を願い信仰を集めています。

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 近鉄桃山駅近くの「御香宮神社」(ごこうのみやじんじゃ)です。
 神功皇后を主祭神として安産守護の神社として、広く信仰を集めています。
 
 表門(国重要文化財)です。伏見城の大手門を移築したものでさすがに豪壮な構えを見せています。
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 表門から拝殿に向かう参道です。
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 拝殿(府指定文化財)です。
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 拝殿をくぐって本殿(国指定重要文化財)に向かいお参りします。
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 さすがに酒どころ伏見、酒樽が数多く神前に供えられています。
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 京阪電車墨染駅近くの「藤森神社」(ふじのもりじんじゃ)です。
 約1800年前、神功皇后によって創建されたという、素戔嗚尊を始めとして、十二柱をお祀りしています。
 今年の干支、午の当たり年でもあり、勝運と馬の神様として信仰を集めています。
 特に、毎年、五月五日の藤森祭の駈馬神事は、京都市の民俗無形文化財に指定されており、多くの人々が集まってきます。
 
 西門と鳥居です。
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 参道です。
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 拝殿です。
 本殿と共に御所より移築したものです。
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 拝殿左右には、大きな馬の招福絵馬が据えられていました。さすがに馬の神様です。
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 本殿です。
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 神馬像です。
 馬の社の象徴として建立されたものです。
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