京都市学校歴史博物館で「青春と学校生活 戦後京都の中学、高校生活」、が特別展として開かれているので興味を惹かれて訪れました。
この歴史博物館は、開智小学校の元校舎を利用して開設されたものです。
常設展示室は、いかに京都の町衆が自分たちの手で各学区に学校を開校していったか、幕末に始まって京都の学校の成立ちを、そして戦後の変遷を系統立てて、パネルや展示物で説明し、構成されています。
また、教科書の部屋が併設されていて、教科書で見る明治から戦後までの歴史を展示しています。
あまり禁止の意味は無いと思いますが、なぜか館内はすべて、写真撮影は禁止されており、内容をお伝え出来ないのが残念です。
入館のパンフレットです。
入口です。学校の正門ををそのまま使用しています。いかにも京都の学校らしい趣を残しています。
入館口です。元成徳小学校の玄関(国登録有形文化財)を移築したものです。
尚徳中学校に置かれていた、二宮金次郎像です。
昔はどこの学校の正門のそばには必ずありました。
特別企画展です。戦後の中学、高校の学校生活をパネル写真と備品などで展示し、学校生活の変遷を感じとれるようになっています。
思い出せば、僕たちの国民学校時代は、軍国教育一辺倒で、意味を理解できないまま、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗」と「教育勅語」を丸暗記させられ、また「じんむ すいぜい あんねい いとくーーーーーめいじ たいしょう きんじょう」「神武 綏靖 安寧 懿徳ーーーー明治 大正 今上」歴代天皇124代の名前を全部暗記して、言えなかったら学校から帰宅させてもらえないような時代を、4年生の夏の敗戦まで過しました。
教育とは恐ろしいもので、直近のことをなかなか思い出せなくても、小学生で覚えさせられた「教育勅語」や「歴代天皇名」などが、すらすらと口をついて出るのには驚きです。
昭和20年の敗戦を境に「撃チテシ止マム」「鬼畜米英」と声高に叫んでいた先生たちが、急に「米国礼賛」を言いだしたのには、子供心にも呆気にとられたことを思い出します。
敗戦後は戦災孤児たちが巷に溢れ、殺伐で深刻な飢餓状態が続き、「青春と学校生活」と言う言葉から受ける「活気に満ちあふれ」「甘いような」また「ほろ苦いような」感触とはほど遠い、暗くて残酷なものでした。
教科書展示室には、拡大複製した僕たちが使用していた教科書が展示されていましたが、僕が所持している復刻版から、内容の一端を知って頂ければ幸いと思い、転載いたしました。
僕が国民学校(小学校)1年生で習った国語の教科書の復刻版を転載したものです。表紙は少し変わっています。(この復刻版は版昭和45年に池田書店から発行されました。)
最初のページです。
次のページです。
同じく国民学校1年生の修身の教科書の復刻版から転載しました。(この復刻版は昭和45年にノーベル書房から発行されました。)
表紙は破れてありませんが、まず最初のページには、皇居二重橋を天皇陛下が隊列を組んで出発して行進する絵です。
同じく修身の教科書の中ほどには、イソップ童話の狼少年の話しで「狼が来たと、たびたび人をだました子供が、本当に狼が出てきた時には、誰も助けにきてくれなかった」と教えています。
同じく1年生の修身の教科書の終わりには、突撃ラッパを吹く木口小平が、有名な「テキ ノ タマニ アタリマシタガ、シンデ モ、ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ。」と日本陸軍兵士の英雄として、教えられました。