幼少の頃からから、慣れ親しんだ京都御所(僕たちは小さい頃から、すべてを総称して御所と呼んでいました)。
「御苑ニュース」秋の号を見て、庭園としての御所に関心を持ち、ちょっと歩いてきました。
御所の案内図です。
「中立売御門」です。
お馴染の「蛤御門」です。
蛤御門を入って、建礼門に至る道筋の紅葉です。
建礼門前正面通りに面した、樹林緑地です。
「清水谷家の椋」
この大きな椋の木は、この付近が清水谷家という公家の屋敷であったことから呼ばれている。樹齢約300年。 1864年(元治元年)禁門の変で、来島又兵衛討ち死の場所です。
「清水谷家の椋」の場所から東を見ています。正面の山は大文字山です。
「凝華洞跡」(ぎょうかどうあと)から京都御所、建礼門を見ています。
京都御所 「建礼門」です。
清水谷家の椋より、北方京都御所西側です。
「白雲神社」周辺の樹林緑地です。
出水大通りの樹林緑地です。
出水の小川周辺から、南方面です。
京都御所西側 「宣秋門」です。
京都御所 東側 「建春門」です。
出水大通りより、後方は「千洞御所」です。
建礼門前大通りの樹林緑地です。
同じく建礼門前大通りの樹林緑地です。
凝華洞跡(ぎょうかどうあと)1864年(元治元年)禁門の変頃の会津藩主松平容保の仮宿舎跡です。
凝華洞跡のイチョウの巨木です。黄色に染まり、見事な景観を見せています。
凝華洞跡の松です。
小さい頃は、軍国主義の華やかな時代で、この場所で、みんなで(お山の大将僕一人)と、てっぺんに頑張って、後から登るものを落としあって遊んだものです。その頃は柵もなく、こんな松は生えてなかったように覚えていますが、思い違いかもしれません。なにしろ70年前のことですから。
建礼門より南方、九条池方面です。
大宮御所西側より南方、正門と西側土塀です。
「石薬師御門」です。
白雲神社です。
この辺りは、我々の小さい頃の、遊びのテリトリーでした。
久し振に訪れて、懐かしい思い出がいっぱい蘇ります。
白雲神社付近の樹林緑地です。
宗像神社です。
小さい頃、神社から、ホウホウという鳥の鳴声をよく耳にしましたが、それがアオバズクだという事を後年知りましたが、今はどうなんでしょうか。
参道から本殿へ。
かくれんぼや、遊び事には、うってつけの場所でした。
九条池より、建礼門方面です。
敗戦直後には、時たまですが、軽飛行機が離着陸していました。すぐそばが自宅だったので、爆音がすれば、走って見に行った記憶があります。
九条池より東方、大文字山を見ています。
ここから大文字の送り火が見えたのですが、現在は樹木も大きくなり、全体が見えなくなりました。
九条池高倉橋より「厳島神社」です。
九条池高倉橋より「拾翠亭」を眺めています。
戦後は手入れもしてなくて、荒れ放題で幽霊屋敷と呼んでいました。
夏の夜の肝試しには恰好の場所でした。
高倉橋からの九条池です。
「閑院宮邸」の庭園です。
「堺町御門」です。
葵祭や時代祭の行列がここから出ていきます。
堺町御門より、丸太町通り西方を見ています。
この通りに面して、青年期まで住んでいました。市電も通っていた懐かしい場所です。
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