四条河原町、西南角に高島屋京都店があります。戦後、この場所に店舗が移転するまで、烏丸高辻角(現、京都銀行本店)にありました。
高島屋への思い出も多い。
記憶は不確かな部分もありますが、昭和25年頃より30年中頃まで一階には「公楽劇場」地下一階には「公楽小劇場」があり、公楽劇場は封切館で、小劇場は名画館として併設されていました。
小劇場は、建物を支える円筒形の太い柱が座席の半ほど左右にあり、スクリーンが見えにくかった事が強烈な思い出としてありますが、当時、いっぱいの観客はそれらを苦にせず、(嘆きの天使)(会議は踊る)(外人部隊)(望郷)(カサブランカ)(自転車泥棒)(チャップリンの作品)など戦前、戦後の多くの名画を二本立てで、安価な料金で楽しんだものです。
一方、高島屋、西側増築部分には「アイスパレス」というスケート場が賑わっており、時には急場のコンサート会場にもなっていました。
当時、専用コンサートホールなど京都にはなく。
河原町三条下った、東側に「京劇」という映画館があり、そこでも音楽会が開かれていましたし。現在「MOVIX京都」になっている、新京極三条下るに「松竹座」という映画館も、臨時に演奏会が開かれていました。
また音楽鑑賞団体「労音」(現、ミューズ)の例会は祇園花街にある「彌榮会館」で開催されていました。
現在では想像もつかない事で隔世の感があります。
四条河原町交差点、北東より高島屋京都店を見る
アイスパレスがあった場所、寺町通り四条下る東入る(現在、高島屋取付け道路、及び駐車場になっています)
ここでの演奏会は、簡易な金属椅子を並べただけの、お粗末なものでありましたが、名曲に酔いしれた思い出があります。
アイスパレスでの演奏会
昭和29年(1954)10月16日(演奏会パンフレット)
演奏 関西交響楽団(現、大阪フィル)で指揮はイギリスより来日したマルコム・サージェント卿でありました。
曲目は、ベートーベン(田園)ドヴォルザーク(新世界)などでありました。
新世界と言えば、第二楽章 ラルゴ(家路)のメロジーが当時、京都市役所の屋上塔屋のスピーカー(戦時中、警戒警報発令のサイレンを鳴らす為のものだった)から、午後十時になれば流されていたのが耳に残っています。
烏丸高辻角、もと高島屋の店舗があった場所。
昭和28年に京都銀行が、当時、画期的な工法として注目されていた、地上で建築物を構築し地中へ沈下させていく(竹中式潜函工法)で建築され、本店として移転しました。
河原町三条下る、東側、京劇映画館跡。ここにも映画館がありました。
戦後の凄まじい混乱期から、徐々に復興期に入り、少しは落ち着きを取戻しつつあり、来日する音楽家も、徐々に現れてきました。
昭和29年4月30日(1954年)イタリアのテノール歌手 フェルチオ・タリアビーニが来日し、演奏会がこの京劇で催されました。
当日のパンフレットと、翌日の演奏会の模様を記事にした京都新聞の紙面。
初めて聴く、「トスカの星は光りぬ」「トスティの理想の
佳人」などオペラのアリアや、イタリア歌曲、民謡など、そして帰れソレントへ」のアンコール曲など、素晴らしい歌声に感動した一夜でありました。
新京極三条下る、もと松竹座跡(現、MOVIX京都)。
映画館ではあったのですが、ここで、市来崎のり子さん主演の(カルメン)が上演され。また若き日の、朝比奈 隆氏、指揮の関西交響楽団(現、大阪フィル)の定期演奏会が随時、開かれていました。
強く印象に残るのは、当時、ベルリン・フィルのコンサートマスターであったヘルムート・ヘラー氏の独奏による、ベートーベンのヴァイオリン協奏曲で、今もその曲を聴く度に当時を思い起されます。
祇園花見小路 花街の中心部
祇園、彌榮会館の正面 右は祇園甲部歌舞練場
この彌榮会館で二期会が中心となり(椿姫)(フィガロの結婚)(マルタ)などオペラが上演され、ヨーロッパ文化の真髄の一端を心から堪能した記憶があります。
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